舊五代史卷三十五 唐書第十一 明宗紀一
後唐の第2代皇帝明宗(諱は亶、初名は嗣源、867–933年)の即位前の生涯。代北の出身で武皇李克用に仕え宗室に列せられ、上源の難で武皇を守って以来武勇で知られた。潞州の囲みを解く戦いや柏郷の戦い、幽州の契丹撃退、汴州攻略など荘宗の覇業を支える最大の功臣となったが、荘宗晩年は讒言を受け疎まれた。鄴都の軍乱で乱兵に擁されて離反し、荘宗崩御ののち洛陽に入って混乱を鎮め、文武百官の請けを容れて監国を許した。
年表(12件)
- 咸通丁亥歳9月9日867年応州金城県で誕生する
- 天祐5年5月908年潞州の囲みを解く戦いで最大の功をあげる
- 天祐8年正月911年柏郷の戦いで白馬都に単騎突入し、代州刺史を授かる
- 天祐13年2月916年元城北の戦いで梁将劉鄩の軍を潰滅させる
- 天祐14年8月917年幽州を包囲した契丹軍を撃退し、検校太保に進む
- 天祐18年10月921年戚城で梁将戴思遠を大破し、蕃漢副総管・同平章事に進む
- 同光元年4月923年莊宗即位に伴い検校太傅兼侍中に進み、鄆州を下し天平軍節度使を授かる
- 同光元年10月923年汴州を攻略し、後梁滅亡に功をあげる
- 同光2年6月924年太尉に進み、蕃漢総管となる
- 同光4年3月926年鄴都討伐に赴くが軍乱に遭い、乱兵に擁されて離反する
- 同光4年4月926年莊宗崩御を聞き洛陽に入り、混乱と略奪を鎮める
- 同光4年4月926年文武百官の請けを容れ、監国を許可する
出自と生い立ち
- 明宗聖徳和武欽孝皇帝は諱を亶といい、初名は嗣源、即位に際し改名した。代北の人で、武皇(李克用)に仕えたことから宗室の属籍に編入された。四代祖の諱は聿、麟州刺史を贈られ、天成初めに孝恭皇帝と追尊、廟号は惠祖、陵は遂陵。高祖妣衛国夫人崔氏は孝恭昭皇后と追諡された。
- 三代祖の諱は敎、朔州刺史を贈られ孝質皇帝と追尊、廟号は毅祖、陵は衍陵。曾祖妣趙国夫人張氏は孝質順皇后と追諡された。皇祖の諱は琰、蔚州刺史を贈られ孝靖皇帝と追尊、廟号は烈祖、陵は奕陵。皇祖妣秦国夫人何氏は孝靖穆皇后と追諡された。皇考の諱は霓、汾州刺史を贈られ孝成皇帝と追尊、廟号は徳祖、陵は慶陵。皇妣宋国夫人劉氏は孝成懿皇后と追諡された。
- 帝は孝成の元子である。唐の咸通丁亥歳(867年)九月九日、懿后が応州金城県で帝を生んだ。初め孝成は唐の献祖に仕え愛将となり、献祖が振武を失い吐渾に攻められ部下が離散した際、孝成は独り義を奮い蔚州の囲みを解いた。武皇が鴈門を鎮めるころ孝成は没し、帝は年わずか十三で騎射に優れていた。献祖は帝を見て「英気は父のようだ、我が側に侍らせよ」と撫で、以後の狩猟に従わせると、飛ぶ鳥を仰射して必ず命中させた。まもなく武皇の帳下に属した。
- 武皇が上源の難に遭い将佐の多くが被害を受けた時、帝は十七歳で武皇に付き従い垣を越えて乱兵・流矢の中を脱難し、無傷であった。武皇が河東を鎮めると帝を親騎の統率に任じた。李存信が蕃漢大将として出征のたびに戦果が上がらなかったため、武皇は帝を副将とし、以後は向かうところ必ず勝利した。
- 帝は嘗て鴈門の宿で、身重の宿の女将が食事の支度を怠っていたところ、腹中の子が「大家(帝)が来たので早く食事を進めよ」と語るのを聞いたという。女将は驚いて自ら台所に立ったといい、帝がその理由を尋ねると女将は事情を語った。
- 帝は成長すると雄武で決断力があり、謙虚で人に下り、戦功を立てても驕らず、常に武具の手入れと質素な暮らしを事とした。武皇が府庫を開き自由に取らせて試したところ、帝は束帛数緡だけを取って退出し、賜与を全て部下に分け与えた。諸将が武勇を誇り合った際、帝は「公らは口で賊を撃つが、吾は手で賊を撃つ」と言い、諸将は恥じて黙った。
若年の武功
- 景福初(892年ごろ)、黒山の戍将王弁が振武で叛くと、帝はこれを攻め捕らえて献じた。乾寧三年(896年)、梁人が兖鄆を急襲し、鄆帥朱瑄が武皇に救援を求めた。武皇は先に李承嗣・史儼を派遣し、さらに李存信に兵三万を率いさせ莘県に駐屯させたが、汴軍が勢いを増し兖州攻撃が激化したため、存信は帝に三百騎で赴かせ、任城で汴軍を破り兖州の囲みを解いた。朱瑾は帝の手を取り涙して謝した。その年、魏帥羅弘信が盟約に背き莘県で李存信を破ったが、帝は殿軍として奮戦し軍を無事に帰した。武皇はその功を賞し、所属の五百騎を「横衝都」と号して帳下に侍らせ、以後両河の間では帝を「李横衝」と呼んだ。
- 翌年、武皇は大将軍李嗣昭に馬嶺関から邢洺の回復を命じたが、梁将葛従周の応援を受け嗣昭軍は敗れ青山口に退き、梁軍に道を扼された歩兵は戦わず自潰した。嗣昭が制しきれずにいたところ帝が本軍を率いて到着し、「歩兵が散っても我らが空しく帰れば大事が去る、公のために一戦し不捷なら死ぬまでだ」と述べ、鞍を解き鏃を研ぎ高所に陣を布いて「王命により葛司徒を討つ、他の兵に用はない」と呼ばわり、単身敵陣に突入して奮戦、嗣昭も続いて進み、梁軍は退いた。帝はこの戦いで四度流矢を受け股から血を流したが、武皇は自ら衣を解き薬を授け酒を賜り、「吾が子は神人だ、そうでなければ従周に笑われていた」と背を叩いて労った。
- 以後「青山の戦い」で帝の名は天下に知られた。天復中(901〜904年ごろ)、梁祖が兵五万を率い洞渦に陣を布き太原を包囲、武皇が籠城し天候不順もあって城壁が崩れる中、帝と李嗣昭に諸営への奇襲を命じ、梁軍を退けた。帝は追撃し諸郡邑を回復した。
- 昭宗が鳳翔に幸した際、梁祖は岐下を包囲し、武皇は詔により李嗣昭・周徳威を晋絳に出兵させ蒲県に陣を布いたが、梁将朱友寧・氏叔琮に大敗し、梁の追兵は晋陽まで迫り晋祠に陣を布いて城を囲んだ。武皇は城を守りつつ雲中への出奔を諸将と議したが、帝が「攻守の力は百倍の差があるが、我らが必ず固守する」と説き思いとどまらせた。数日後潰散した軍勢を集め直し、敢死の兵で夜襲を重ね梁の驍将游崑崙らを捕らえ、梁軍は勢いを失い焼営して退いた。
潞州の囲み・柏郷の戦い
- 天祐五年(908年)五月、莊宗が自ら兵を率い潞州の囲みを救おうとした際、帝は突騎の左右軍を領し周徳威と分担、夾城の東北隅で鹿角を伐り芻を負って塹を埋め馬に乗って城に上り大いに気勢を上げ、周徳威も西北隅から呼応、帝が先に夾城に入り梁軍を大破、この日の囲みの解除は帝の功が最大であった。
- 柏郷の役では両軍対陣の際、莊宗は梁軍の勢威を見て帝の士気を鼓舞しようと白金の巨鍾で酒を賜り「南軍の白馬・赤馬の陣が見えるか、見る者は肝を潰す」と述べたが、帝は「見かけ倒しだ、明日には吾が厩に加わる」と答えた。莊宗は大笑し「卿は既にこれを呑んでいるな」と褒め、帝は酒を飲み干すと単騎で部下百人と共に白馬都に突入、多くを討ち取り二人の騎校を生け捕って帰った。全身に矢を受けながらも三軍の士気は大いに上がり、この日梁軍は大敗、帝は代州刺史を授けられた。
- 莊宗が周徳威を幽州に代わらせると、帝は山後八軍を分けて略定し、劉守光の愛将元行欽と広辺軍で八度戦い、互いに矢を射交わし帝も股に矢を受けたが抜いて戦い続け、行欽はついに窮して降伏した。帝は酒を酌んで飲ませ「吾が子は壮士だ」と厚遇した。
各地転戦と莊宗即位への貢献
- 十三年(天祐十三年、916年)二月、莊宗と梁将劉鄩が故元城北で大戦し、帝は三千騎で敵を囲み内外挟撃して鄩の軍を潰滅させ、その後磁洺の地を平定した。四月、相州の張筠が逃走すると帝を相州刺史とした。九月、滄州節度使戴思遠が城を捨て汴に帰し、小将毛璋が城を献じて帝を迎え入れたが、書吏の誤報から莊宗が帝の反乱と誤解し激怒、帝は書吏を斬って謝し、まもなく邢州節度使を授けられた。
- 十四年(917年)四月、契丹の按巴堅が三十万の衆を率い幽州を攻め、周徳威が急を告げた。諸将は敵の兵糧が尽きるのを待つべしと言ったが、帝は「徳威は忠義の臣、孤城が攻められ危急にある、突騎五千を貸してほしい」と願い出て許され、李存審・閻寶と共に赴援、易州で軍を合わせた。帝は「敵は騎馬が本領で防柵に頼らず、我らは寡兵ゆえ潜行して不意を突くべし」と説いた。八月、上谷を発ち雨模様であったが帝が天に祈ると晴れ、大房嶺沿いに進軍。翌日敵騎が谷口を扼するたびに帝と長子李従珂が血戦して打開し、幽州近くで再び敵が谷口に陣したため、帝は「将たる者は家を忘れ身を忘れて国に殉ずるのが本分、今日がその日だ」と単身敵陣に突入、生擒した敵酋を連れ帰ると全軍が奮起し敵は総崩れとなった。この日囲みを解き幽州に入城、周徳威は帝の手を取り涙した。九月、魏州に凱旋し莊宗自ら郊外で労い検校太保に進んだ。
- 十八年(921年)十月、莊宗に従い梁将戴思遠を戚城で大破し二万級を斬首、帝は蕃漢副総管・同平章事に進んだ。二十年(923年)、李存審に代わり滄州節度使となる。四月、莊宗が鄴宮で即位(同光元年)すると帝は検校太傅兼侍中に進み、歩騎五千で鄆州を襲い下し天平軍節度使を授けられた。
- 五月、梁人が徳勝南城を陥れ楊劉を囲み糧道を扼したため帝は汶陽で四面の敵に囲まれ孤立したが、莊宗が楊劉の囲みを解いた。九月、梁将王彦章が歩騎万人で鄆州に迫った際、帝の長子従珂が遞坊鎮で迎撃し梁将任釗ら三百人を捕らえ、彦章は退いた。莊宗自ら鄆に至り帝を前鋒として中都で梁軍を大破し王彦章を生け捕り、諸将は祝賀した。莊宗は帝に酒を賜り「先に朝城で鄆州放棄の議が多かったが、副総管の防戦と崇韜の内政あってのものだ、李紹宏らの言に従っていれば大事は既に去っていた」と述べた。
- 諸将が青齊徐兖は空城ゆえ王師一臨で降ると議す中、帝だけが汴州直取を勧め莊宗は喜んで従った(詳細は莊宗紀に記す)。帝は先発し十月己卯、莊宗に先んじて汴州封邱門を攻め、汴将王瓚が開門して降った。帝が建国門に至った時、梁主の死を聞き号令して民を安撫、莊宗を封禅寺の路傍で出迎えると、莊宗は喜んで帝の衣を引き額をつけ「吾が天下を得たのは公の血戦のおかげだ、共にこれを保とう」と述べ、まもなく兼中書令に進んだ。
蕃漢総管として
- 同光二年(924年)正月、契丹が塞を犯し帝は北征を受命。二月、莊宗の郊天礼の後、帝に鉄券を賜る。四月、潞州の小将楊立が叛くと帝が討伐を命ぜられ、五月に楊立を捕らえて献じた。六月、太尉に進み汴州に移鎮、李存審に代わり蕃漢総管となる。十二月、契丹が来寇。
- 三年(925年)正月、帝は兵を率い涿州で契丹を破り、鎮州節度使に移された。先に鄴を通過した際、鄴の武庫にあった御用の甲を五百両取って行ったことを莊宗が鄴に幸して知り激怒。まもなく帝は長子従珂を北京内衙都指揮使とするよう請うたが莊宗はさらに不満を示し「軍政は朕にある、なぜ子のために奏請するのか、自分の細鎧を強奪するとはどういうことか」と言い、留守張憲に自ら取りに行かせるところを左右が説いて止めさせた。帝は恐懼して安んぜず、上表して事情を申し立てようやく解かれた。
- 十二月、帝は洛陽に朝す。当時、莊宗の失政により四方は飢饉、軍士は困窮し子や妻を売る者もあり道々に怨嗟の声が満ちていた。帝は京師で謠言の的とされ、朱友謙・郭崇韜が無実の罪で誅殺されると中外の大臣は皆恐れおののいた。諸軍馬歩都虞候朱守殷が密旨を受け帝の動静を伺い、密かに「徳業が主を震わせる者は身が危うく、功が天下を蓋う者は賞されないという、公はまさにこれに当たる、自ら図るべきだ、禍に巻き込まれてはならない」と告げたが、帝は「吾が心は天地に恥じない、禍福は天に任せる、卿もこれ以上語るな」と答えた。
鄴都の乱と洛陽への帰還
- 四年(926年)二月六日、趙在礼が魏州に拠って反すると、莊宗は元行欽に兵を率いさせ攻めたが利あらず衛州に退いた。帝は元来李紹宏に善遇され、洛陽で讒言を受けた紹宏をしばしば庇っていた。行欽の兵が退くと河南尹張全義が密かに帝の北伐を奏請し紹宏も賛成、帝は兵を率い河を渡った。
- 三月六日、帝は鄴都に至り、趙在礼らが城壁から謝罪し牲餼を出して労うと帝はこれを慰撫、鄴城西南に陣を布き九日の攻城を命じたが、八日夜に軍乱が起こった。従馬直軍士の張破敗が号令し諸軍が都将を殺し営を焼き払い、五鼓には乱兵が帝の陣営に迫り親軍との激戦で半数近くが死傷した。帝が乱兵の狂逆を叱責すると、乱兵は「先の貝州の戍兵に主上が寛大な処遇を与えず、鄴城平定後には全軍を生き埋めにするとも聞く、我らに叛意はなく死を恐れるのみ、既に城中と合流して討伐軍を退け、主上には河南、令公(帝)には河北を治めていただこうと諸軍で相談した」と述べた。帝は泣いてこれを拒んだが、乱兵は「令公は河北を得なければ他人に奪われる、危機が迫っている」と刃を抜いて包囲、安重誨・霍彦威が帝の足を踏み偽って従うよう促し、乱兵に押されて鄴城に入った。趙在礼らは歓喜して迎えた。
- この日、行宮で将士に饗応したが在礼らは外兵を城に入れず軍衆は流散した。帝は南楼から在礼に「大計を建てるには兵が要る、城外で諸軍を招撫する」と告げ城を出て、夜に魏県に至った時、部下は百人に満たなかった。霍彦威の鎮州兵五千は乱れず、帝の出立を聞き帰属した。翌朝帝は城壁で涙を拭い「国家の患難がここまで至った、明日帰藩し上表して再挙を図る」と述べたが、安重誨・霍彦威らは「元行欽は城南で戦声も聞かず無故に逃げた、その奏上を信じるのは危うい、帰藩は要君の誹りを招く、京闕に急行し面奏すべき」と諫め、帝はこれに従った。
- 十一日、魏県を発ち相州に至り官馬二千匹を得てようやく軍容を整えた。元行欽はなお衛州で飛語を上奏し続け、帝も上表して申し立てたが、莊宗が子の従審と内官白従訓に詔を持たせて遣わした際、従審は衛州で行欽に捕らえられ帝の奏章も届かなかった。帝は白皋の渡しに向かい河上に駐軍、たまたま山東からの上供の絹の船が到着しこれを軍の賞与に充て士気が上がった。渡河の船が少なく憂慮していたところ、木栰が数隻流れ着き渡河を助けた。
- 二十六日、汴州に至る。莊宗が滎沢に至り姚彦温を前鋒としたが、彦温は部下八百騎を率い帝に帰順し「主上は行欽に惑わされ事勢は既に離れた、共に事を成すのは難しい」と告げた。帝は「卿の不忠の言など聞くまでもない」と述べつつ彦温の兵を接収、「主上は吾が心を諒とせぬゆえこの事態を招いた、速やかに京師に赴くべし」と命じた。房知温・杜晏球も相次いで合流。
- 四月丁亥朔、甖子谷に至り莊宗崩御の報に接し帝は慟哭した。翌朝、朱守殷から京城大乱・略奪続発の報せに急ぎ京師に向かい、己丑洛陽に至り旧宅に入り、諸将に略奪の禁圧を命じた。百官は喪服姿で帝に謝罪し涙した。魏王継岌はまだ蜀から戻っておらず、帝は朱守殷に「よく巡撫して魏王を待て、吾は大行(莊宗)の梓宮を奉じ山陵の礼が終われば帰藩する」と述べた。この日、群臣・諸将が勧進の牋を進めたが帝は自らこれを止めた。
監国から即位まで
- 李紹宏・張居翰・豆盧革・韋説・朱守殷・符習・霍彦威・杜晏球・房知温らが「帝王の天命は謙遜だけでは免れず、智力だけでも求められない、前代も敗を転じて功となした例がある、少康の夏再興・平王の周再興に等しい、今日廟社に主がなく、天命の帰するところに争いようがない、殿下は衆望に従い時を逃さず教令を布くべき」と頓首して勧めたが、帝は答えを与えず従わなかった。
- 壬辰、文武百寮が三度牋を上げて監国の儀を行うよう請い、帝は許可。甲午、大内興聖宮に幸し百寮の拝謁を初めて受け、有司が即位の儀注を議した。霍彦威・孔循らは「唐の運命は既に衰えた、自ら新号を建てるべき」と改国号を進言したが帝は従わず、藩邸の侍臣に「先帝は錫姓の宗属として唐のために雪冤し唐祚を継いだ、今、梁朝の旧臣は殿下が唐を称することを望まない、名号を改めてはどうか」と問われた際、帝は「予は十三で献祖に仕え宗属として愛幸され、武皇に三十年仕え艱難を共にし刃を冒して血戦し全身に傷を負った、武皇の功業は即ち予の功業、先帝の天下は即ち予の天下、兄が亡くなり弟が継ぐのに何の憚りがあろうか、同宗で号を異にするのはどの典礼に基づくのか、歴数の盛衰は自ら引き受ける、衆の異論は取らない」と答えた。
- 群臣の議は定まらなかったが、吏部尚書李琪だけが「殿下は宗室の勲賢、三世にわたり大功を立て、一朝にして涙して難に赴き宗社を安んじた、事に因り心を失わず旧物のままとすべき、もし新統を立てれば先朝は路人のようになり、梓宮の帰する所もなくなる、本朝の睿宗・文宗・武宗も皆弟として兄を継ぎ即位した例があり、柩前で儲后の儀に倣うのがよい」と論じ、これにより群議はようやく定まった。
- 河中軍校王舜賢、節度使李存霸が三日に出奔し行方不明と奏上。乙未、勅により、諸王眷属で驚擾により出奔した者を速やかに津送し、不幸にして亡くなった者は収瘞するよう命じた。安重誨を枢密使、張延朗を枢密副使、范延光を宣徽使、馮贇を内客省使とした。
- 丙申、下敕により今年の下苗は人戸に自ら頃畝を通報させ五家を保とし、州県が検括のため人を差し向けることを禁じ、隠欺があれば陳告を許し田を倍徴するとした。己亥、石敬瑭を陝州兵馬留後、皇子従珂を河南府兵馬留後とした。庚子、淮南楊溥、新茶を進上。孔循を樞密副使、劉仲殷を鄧州留後、王思同を同州留後とした。
- 敕により、租庸使孔謙が権力を専らにして侵剥を重ね、民を塗炭に陥れ軍士を困窮させたとして官爵を削奪し軍令により処断、家産田宅は籍没とした。この日謙は誅に伏した。租庸の名額は塩鉄・戸部・度支の三司に戻し、宰臣豆盧革が中書門下の判事として、諸道の監軍使・内勾司・租庸院の大程官、豚羊柴炭戸の割当・田の丈量など朱梁の旧制に倣った過重な負担を停廃するよう上言、節度・刺史が三司に直接申告し百姓に科率させないこと、蚕塩の俵散は年二月一度とし夏税に合わせ納めさせること、夏秋の苗税は元の徴収額以外に紐配しないこと、先の赦で放免されたはずの逋税・租庸の違制徴収は全て除放することを求め、河南府と諸道にこれを施行するよう命じた。この日、宋州節度使元行欽が誅に伏した。壬寅、孔循を樞密使とした。