舊五代史卷三十四 唐書第十 莊宗紀八
後唐荘宗(存勗)が同光4年(926年)正月から4月にかけて滅亡に至る最終章。蜀平定の功臣郭崇韜を讒言により誅殺し、河中の朱友謙(李継麟)や弟の李存乂も次々に粛清した結果、諸将は疑心を抱いた。貝州の兵乱を機に鄴都で反乱が広がり、鎮圧に向かった李嗣源までも乱軍に擁されて離反、荘宗は都に戻るも興教門の変で流矢に当たり崩御した。享年42。
年表(8件)
- 同光4年正月926年魏王継岌が西川で郭崇韜とその一族を誅殺する
- 同光4年正月926年弟の鄜州節度使李存乂を誅殺する
- 同光4年正月926年河中節度使李継麟(朱友謙)を誅殺し、一族を滅ぼす
- 同光4年2月926年貝州の兵が反乱し、趙在礼を擁して鄴都を占拠する
- 同光4年2月926年元行欽に鄴都討伐を命じるが落とせない
- 同光4年3月926年討伐に向かった李嗣源が鄴都の軍乱に擁され離反する
- 同光4年3月926年任圜が漢州を収復し康延孝を捕らえるが、李嗣源はすでに汴州に入る
- 同光4年4月1日926年興教門の変で郭従謙の乱兵に流矢を受け崩御する。享年42
同光四年(926年)
- 春正月戊午朔、帝は朝賀を受けず。契丹が渤海に侵攻。壬戌、前年の災害による物価高騰を受け、正殿を避けて膳を減らし楽を止める詔を出し、前年水害に遭った州県の租税を免除。壬午年以前の未納税で既に勅命により免除済みのものになお徴収が続いているとの訴えを受け、租庸司に前勅どおりの処理を命令。京畿内で穀物を貯め値上がりを待つ者には値引き放出を命じ、従わなければ検査摘発するとした。
- 西川の王衍父子と偽署の将相官吏は、既に処刑された者を除き釈放。天下の囚人は十悪五逆・官吏の贈収賄・牛の屠殺・銭の鋳潰し・放火・強盗・刃物での殺人など律の常赦で許されない重罪を除き、死刑に当たる者は一等減じ、その他は皆減刑。逃亡兵は帰郷を許可。
- 癸亥、河中節度使李継麟が来朝。諸州、前年十月の地震により消災道場を開くと上言。甲子、魏王李継岌、西川で枢密使郭崇韜を殺しその一族を滅ぼす。
- 丙寅、百官が三度上表し帝の膳を戻すことを許可。西川行営都監李廷安、西川の楽官二百九十八人を進上。契丹・女真・渤海が来寇。戊寅、契丹の按巴堅、使者を送り良馬を貢ぐ。
- 庚辰、帝の異母弟・鄜州節度使李存乂が誅殺される(郭崇韜の娘婿であったための連座)。同日、河中節度使守太師兼尚書令西平王李継麟を滑州節度使に転任させ、朱守殷に兵でその邸を包囲させて誅殺、一族も滅ぼす。
- 辛巳、吐渾・奚が各々使者を送り馬を貢ぐ。鎮州、凍死した民七千二百六十人と報告。甲申、鄆州節度使永王李存霸を河中節度使に、滑州節度使申王李存渥を鄆州節度使に。
- 乙酉、内人景姹の求めにより、昭宗遭難時に殺された皇族千余人が宮城西の古龍興寺北に三穴に埋葬されていたのを改葬することとし、河南府に監護を命令。丙戌、回鶻可汗阿都欲、使者を送り良馬を貢ぐ。鎮州、平棘等四県で餓死した民二千五十人と上言。
- 丁亥、朱友謙に加担した史武ら七人を国法により処断し家産を没収。
- 二月己丑、李紹宏を驃騎大将軍守左武衛上将軍知内侍省充枢密使に。甲午、李紹奇を河陽節度使に。楽人景進を銀青光禄大夫検校右散騎常侍守御史大夫とする。同日、帝は冷泉で狩猟。
- 乙未、宰臣豆盧革、州県官に実俸を支給し職務を課すよう上言。丙申、武徳使史彦瓊、鄴からの急報として、貝州駐屯兵が都城に乱入し坊市を略奪したと伝える。もとは魏博指揮使楊仁晸が瓦橋の戍を命じられ、交替の帰途に貝州駐屯を命じられていた。前年は天下大水、十月に鄴地で大地震があり、以後民の逃亡が相次ぎ「城が乱れる」との噂に人々は恐れていた。
- 十二月、戸部尚書王正言を興唐尹知留守事とする。正言は老齢で持病があり事を忘れがちで政務に疎かった。武徳使史彦瓊が伶官出身ながら帝の信任を得て実権を握り、正言以下は皆委縮して迎合するのみで政治は機能せず、姦人が付け入る隙となった。郭崇韜誅殺後、崇韜が継岌を殺して自ら西川王になろうとしたとの噂が広まり、郭氏一族が滅ぼされた。先に密詔で史彦瓊に朱友謙の子・澶州刺史建徽を殺させたが、彦瓊は夜半に出城し行方を告げなかった。翌朝、王正言に「史武徳が夜半に馬で去ったが行方不明」との報せがあり人々は動揺。「劉皇后が、継岌が蜀で死んだと聞いて弑逆を行い、帝は既に崩御した、それゆえ急ぎ彦瓊を召還した」との訛言が鄴市にも伝わった。
- 貝州の軍士で都下に私的に帰省していた者がこの噂を貝州の軍士に伝え、皇甫暉らが夜の賭博に負けたのを機に反乱を起こし、都将楊仁晸を脅して「我らは十余年国のため命をかけたのに、天子は恩を垂れず猜疑し、辺境防備で長年家族と離され、交替で帰っても家に立ち寄らせてもらえない。皇后が弑逆し京邑が乱れていると聞く、将士は皆帰って親を見舞いたい、共に行動してほしい」と迫るが、仁晸は拒み、軍士に刃を抜いて包囲され、なお拒んだため斬られた。副将趙在礼も乱兵に追われ、頭を差し出すか将になるかを迫られ、承諾。
- 群衆は夜通し貝州を焼き略奪し、翌朝趙在礼を擁して臨清に向かい永済・館陶を略奪。五日後、乱兵が都城を襲うとの報せに都巡検使孫鐸らが史彦瓊に武装を求めたが、彦瓊は「賊が至るまで六日ある」と油断し、孫鐸の警告も聞き入れず、かえって孫鐸らを疑い拒否した。夜三更に賊が北門を攻め、彦瓊の部隊は驚いて潰走、彦瓊は単騎で京師に逃走。翌朝、乱軍が入城、孫鐸は母を連れて水門から脱出し難を逃れた。
- 夕方、趙在礼が諸軍を率いて宮城を占拠、皇甫暉・趙進らを都虞候・斬斫使とし、諸軍が大略奪。興唐尹王正言は在礼に望塵の礼をとる。この日、衆は趙在礼を兵馬留後に推し上奏文を作成。帝は怒り、宋州節度使元行欽に騎兵三千を率い鄴都に赴かせて招撫し、諸道の軍に討伐を命じる。
- 丁酉、淮南楊溥、蜀平定を賀す使者を送る。己亥、魏王継岌、康延孝が反乱し西川に侵攻したと奏上、副招討使任圜に討伐を命令。庚子、福建節度副使王延翰、節度使王審知が軍府事務を委任したと奏上。邢州の左右歩直軍四百人が城に拠って叛乱し軍校趙太を留後に推す。東北面副招討使李紹真に討伐を命令。
- 辛丑、元行欽が鄴都に到着し南門を攻め詔書で招諭。趙在礼は羊酒を献じて労い、行欽に「将士は長年離散し、父母に無断で帰郷しただけで、公が上奏を取り成してくれれば改過自新する」と述べる。行欽は「主上は汝らの社稷の功を思い赦免するだろう」と詔書で諭したが、皇甫暉が大いに罵って詔書を破棄。行欽これを報告すると帝は怒り「城を収める日には一人も残すな」と命じた。
- 壬寅、行欽、鄴から退いて澶州に駐屯。甲辰、従馬直宿衛軍士王温ら五人が夜半に謀反を企て本軍の使を殺すが衛兵に捕らえられ磔刑。丙午、韓彦惲を戸部侍郎に。丁未、元行欽、諸道軍を率い再度鄴都を攻撃。戊申、李紹文を夔州節度使に、河中節度使永王存覇に帰藩を命令。己酉、宋唐玉を特進左威衛上将軍充宣徽南院使に。
- 庚戌、諸軍鄴都に集結し攻撃するも落とせず。行欽さらに攻城具を整え、城中は赦されないと悟り昼夜備える。朝廷これを聞き恐れ、継岌の西征軍を急ぎ呼び戻そうとしたが、継岌は康延孝が漢州に拠るため中軍を任圜に討伐させ自身は利州に留まり東帰できなかった。飛龍使顔思威、西川の宮人を配置。
- 辛亥、淮南楊溥、方物を貢ぐ。西京、客省使李厳が蜀主王衍を護送し至ったと上言。壬子、張全義を検校太師兼尚書令充許州節度使に。東川董璋、詔により遂州節度使李令徳を誅しその一族を滅ぼしたと奏上。
- 癸丑、湖南馬殷、福建節度使王審知重病のため副使王延翰が軍府事務を代行、旌節降下を求めると奏上。司天監、二月上旬以降昼夜曇天で天象見えず二十六日晴れたと上言。朱漢賓を河南府事知に。
- 甲辰、蕃漢総管李嗣源に親軍を率い鄴都に赴き趙在礼討伐を命令。帝は元行欽を厚く信任し招討使としたが久しく成果なし。趙太が邢州、王景戡が滄州に拠り自ら留後を称し、河朔の郡邑で長吏が多く殺された。帝は親征を望んだが、枢密使・宰臣は「京師は天下の根本、将を派遣すればよく自ら出陣するには及ばない」と諫めた。帝は「行欽は成果なく、継岌の軍はまだ巴漢に留まっており他に将がいない」と述べたが、枢密使李紹宏らは「総管李嗣源は陛下の宗臣で創業以来の功臣、何城も落とせぬことなく何賊も平らげぬことなし、これに専征を委ねれば鄴城の賊は平定できる」と奏上。帝は郭崇韜・朱友謙誅殺後、宦官・伶官の讒言に惑わされ大臣に兵を委ねるのを避けていたが、河南尹張全義も嗣源への委任を勧めたため、ついに嗣源に命じた。
- 同日、延州知州白彦琛、綏銀の兵士が州城を略奪し謀反したと奏上。魏王継岌、郭崇韜父子の首を関門に伝送、詔により張全義がこれを収め埋葬。乙巳、李粛を安邑・解県両池の榷塩使に、李琪を国計使に。
- 三月丁未朔、李紹真、邢州を収復し賊首趙太ら二十一人を捕らえ鄴都城下で磔刑にしたと奏上。庚戌、李紹真、邢州から鄴都城下に至る。辛亥、王延翰を福建節度使検校太傅に。壬子、李嗣源、鄴都に至り西南隅に陣を布く。甲寅、観音門外に陣を進め諸軍に翌朝攻城を命じるが、この夜城下で軍乱が起き李嗣源に迫る。帝は翌朝、乱軍に擁されて霍彦威と共に鄴城に入り、また皇甫暉・趙進らに脅されるが、詭弁を用いて脱出し、夜半に魏県に至る。
- 嗣源は鎮州を遥領していたため翌朝帰藩し罪を請おうとするが、安重誨が反対(詳細は明宗紀に記す)。翌日、相州に至る。元行欽の部下は退いて衛州を保ち、飛語を上奏。嗣源は一日のうちに数度使者を送り事情を申し立てた。帝は嗣源の子従審と中使白従訓に詔を持たせ嗣源を諭そうとするが、従審は衛州で元行欽に捕らえられ届かなかった。同日、西面行営副招討使任圜、漢州を収復し逆賊康延孝を捕らえたと奏上。
- 丙辰、荊南高季興、峡内夔・忠・万等三州を割いて当道に帰属させることと雲安監を請う。戊午、河南府に今年の夏秋の租税の前借りを命じる詔。年は飢饉で民は困窮し、京畿の民は路上で号泣、識者は「劉盆子の再来」と評した。庚申、孔勍に赴闕を命じ、安崇阮に潞州の権知を命じる。同日、張全義薨去。
- 壬戌、宰臣豆盧革、百官を率い魏博の軍変により内府の金帛を出し将士に優給するよう上表するが返答なし。星を観る者、客星が天庫を犯し府蔵を散じるべき、また流星が天棓を犯し御前に急な兵事があるとの兆しと上言。帝は宰臣を便殿に召し、皇后は宮中の化粧道具の銀盆各二つと皇子満哥ら三人の物を出し「外の人は内府に金宝が無数にあると言うが、諸侯の貢献はすぐに賜与に回した、宮中にあるのは化粧道具と嬰児のものだけ、これを売って軍に給せよ」と述べ、豆盧革らは恐懼して退いた。
- 癸亥、林思諤を閬州刺史に。同日、銭帛を出し諸軍に賜り、両枢密使や宋唐玉・景進らも各々軍への助けの銭幣を貢献。当時、軍士の家は食糧が乏しく婦女が野で野菜を摘み、優給を受けた軍人も「妻子は既に餓死したのに、これが何の役に立つか」と罵った。
- 甲子、元行欽、衛州から部下を率い帰還、帝は耀店に幸してこれを労う。西川からの輦運金銀四十万が到着し将士に分配。元行欽、帝に汴州行幸を請う。帝は京師を発とうとし、中官向延嗣を遣わし蜀主王衍とその一族を各地で誅殺するよう馳詔。
- 乙丑、車駕、京師を発つ。戊辰、元行欽に騎軍を率い黄河沿いに東進させる。壬申、帝、滎沢に至り龍驤馬軍八百騎を前軍とし姚彦温に統率させるが、彦温は中牟に至り部下を率いて汴州に逃亡。潘瓌も王村寨の穀物数万を残し汴州に逃亡。この時李嗣源は既に汴に入っており、帝は諸軍が離散したと聞き意気消沈、万勝鎮に至って軍を返す。
- 荒れた塚のそばで酒宴を開き、諸将を見て涙を流した。野人が雉を献上し塚の名を尋ねると「里人は愁台と伝えている」と答え、帝はますます不快になり酒宴をやめて去った。この夜、氾水に宿営。従駕兵は東関を出た時の二万五千から、氾水に戻った時には既に一万余騎を失っていた。張瑭に歩騎三千を留めて関を守らせる。
- 帝が甖子谷を過ぎる際、道が険しく狭く、兵仗を持つ衛士に会うたびに慰めの言葉をかけ「魏王継岌が西川の金銀五十万を進上した、京に着けば全て汝らに与える」と言ったが、軍士は「陛下の賜与は遅すぎる、感謝もできない」と答え、帝は涙を流すのみ。また従官に与える袍帯を求めたが内庫使張容哥は「頒給は既に尽きた」と答え、衛士は容哥を「我が君の社稷を保てなくしたのはこの宦官のせいだ」と罵り刀を抜いて追った。容哥は救われて難を逃れたが、同僚に「皇后は物を惜しんで分配しなかった、軍人は我らに罪を帰す、事がもし予測不能になれば我らはばらばらに殺される、この禍を見たくない」と言い河に身を投げて死んだ。
- 甲戌、石橋に宿営。帝は野外で酒宴を開くが悲しみ楽しめず、元行欽ら諸将に「鄴下は乱離し賊盗が蜂起し、総管は乱軍に迫られ存亡不明、訛言が飛び交い朕は本当に頼りない。卿らは予に仕えて以来富貴を共にし危急も分かち合ってきたのに、今は黙って何も言わず成り行きを傍観している。予は滎沢で単騎で河を渡り総管を訪ね方略を考え乱軍を招撫しようとした。卿らはそれぞれ思うところを述べ利害を陳べよ、今日予をこの状況にしたのは何故か」と問うた。元行欽ら百余人は涙を流し「臣は元は小人、陛下の撫養を受け位は将相を極めたが、危難の時に功を立てて主に報いることができず、死んでも責めを塞ぐに足りない、後日の効を以て国恩に報いたい」と奏上し、百余人は皆刀を取って髪を切り鬚を地に置き断首の誓いを立てた。上下皆悲しみ号泣し、識者は不祥の兆しと見た。この日、西京留守張筠、西征兵士を配置し帝を上東門外に出迎え、夕方帝は還宮。
- 氾水で衛兵が散り散りに逃げ京師は恐れ動揺していたが、帝の帰還で人心はやや安定。乙亥、百官、名を進めて起居。安義節度使孔勍、兵士を点検し防城の準備をし詔により一万石の糧を運ぶと奏上したが、実は既に監軍使を殺して城に拠り虚偽の奏上をしていた。
- 丙子、李紹宏と宰相豆盧革・韋説、中興殿の廊下で軍機を協議し、魏王の西征兵がまもなく到着するので車駕は氾水に留まりこれを待つべきと奏上、帝これに従う。午時、帝は上東門を出て騎軍を親閲、翌朝東に向かうことを命じ、申時に還宮。
- 四月丁丑朔、永王存霸を北都留守に、申王存渥を河中節度使に。同日、車駕は京師を発とうとし、従駕馬軍は寛仁門外に、歩兵は五鳳門外に陣を布く。帝が内殿で食事をしていた時、従馬直指揮使郭従謙が本営から部下を率い武器を取って興教門に至り大声を上げ、黄甲両軍と共に興教門に弓を射かけた。帝はこの変事を聞き、宮中から諸王・近衛を率いて防戦し乱兵を門外に追い出したが、乱兵は興教門を焼き城壁伝いに侵入、宮牆に登り騒ぎ立てた。帝は親軍を率い格闘し乱兵数百人を殺したが、まもなく流矢に当たり正午に絳霄殿の廡下で崩御した。享年四十二歳。
- この時、帝の側近は皆逃げ散ったが、五坊の人・善友だけが廊下の楽器を集め帝の遺骸の上に積んで火をつけて焼いた。明宗が洛陽に入った時には焼け残った骨だけが見つかった。天成元年七月丁卯、有司が諡を光聖神閔孝皇帝、廟号を莊宗と定め、同月丙子雍陵に葬った。
史論
史臣曰く、莊宗は雄大な計略で河汾に興り、力戦して汴洛を平らげ家の讐を雪ぎ国祚を中興した点は、少康の夏継承や光武の漢再興に劣らない。しかし得るに大きな労力を要した天下を失うのは何と速かったことか。驟勝に驕り安逸を貪り、艱難を忘れて声色に狂楽し、外では伶人が政を乱し、内では皇后が政に関わり、財貨を出し惜しんで六軍の憤怨を招き、租税を厳しく徴収して万民の膏血を尽くし、大臣を無実の罪で誅殺し、衆人は口を閉ざして禍を避けるに至った。これらのうち一つでもあれば亡びぬはずがないのに、全てが揃っては亡びずにいられようか。静かに思えば万世の戒めとするに足る。