舊五代史卷三十一 唐書第七 莊宗紀五

後唐荘宗(存勗)の同光2年(924年)正月から4月にかけての記録。郊祀・尊号奉呈など即位後の儀礼が続く一方、宦官を諸道から召還して再び側近に用いる詔を出すなど、後の混乱につながる兆しが表れ始める。4月には皇后劉氏を冊立したが、同月末に潞州で小校楊立が反乱を起こした。

年表(6件)

同光二年(924年)

  • 正月庚子朔、帝は明堂殿で朝賀を受けた。壬寅、南郊礼儀使の李燕が太廟に登歌を進め、懿祖室の舞を昭徳之舞、獻祖室を文明之舞、太祖室を應天之舞、昭宗室を永平之舞と名づけた。
  • 甲辰、幽州から契丹が瓦橋まで侵入したとの報があり、李嗣源を北面行營都招討使、霍彥威を副とし幽州救援に向かわせた。已巳、故宣武軍節度副使で権知軍州事の王瓚に太子太師を贈った。丁未、朝元殿を明堂殿に、崇勲殿を中興殿に改めさせた。戊申、李存霸が権知潞州留後、高允韜が検校太保となった。庚戌、李從曮を検校太尉兼中書令とした。
  • 應順門を永曜門、太平門を萬春門、通政門を廣政門、鳳明門を韶和門、萬春門を中興門、解卸殿を端明殿とそれぞれ改称する詔が出た。
  • 同日、宦官整理の詔が出された。宮中の内官が外の政務に関与することを禁じ、諸道の宦官を身分の高低にかかわらず家族ごと都へ送還させるというもの。帝は潜龍の頃すでに宦官五百人を抱えていたが、これで諸道から集まった者は約千余人となり、みな厚遇されて実務や側近を任された。唐代の宦官が内諸司使として王命の伝達や監軍を担い、昭宗の代にはそれが亡国の因となったが、帝はこれを戒めとせず旧弊を再興したため、識者はこれを惜しんだ。新羅王金朴英が朝貢の使者を送った。
  • 辛亥、中書門下が本朝の故事に基づき、官告発給の手続き(用紙・印署・費用負担など)を定め、許可された。
  • 壬子、蜀主王衍が帝に書を送り、汴州回復を偽って触れ回る詐称の天使がいると訴えたため、捕縛を命じたが捕らえられなかった。
  • 癸丑、有司が郊祀の二日前に高祖・太宗・懿祖・獻祖・太祖の神主を太廟に迎えることを奏したが、議者は中興の唐室に追封の祖を国君と並べて祀るのは不適切とし、懿祖以下は後漢の南陽の故事に倣い代州に別廟を建てるべきだとした。幽州の北面軍前から契丹が退いたとの報があり、李嗣源に班師を命じた。鳳翔節度使秦王李茂貞が藩臣の礼を行いたいと上表し、帝は厚くこれに応じた。
  • 甲寅、帝は中興殿で郭崇韜に鉄券を賜った。有司が皇太后を銀臺門内で迎えるべきと奏したが、帝は自ら懷州まで出向いて奉迎すると詔し、のちに河陽へ変更した。王正言が礼部尚書のまま租庸使を兼ねた。
  • 乙卯、渤海国が方物を貢いだ。幽州から媯州山後十三寨の百姓が新州に復帰したとの報があった。
  • 戊午、薛廷珪が検校戸部尚書・太子少師として致仕、封舜卿が太子少保として致仕、李文規が戸部侍郎として致仕した。塩鉄・度支・戸部の管轄を租庸使に委ねる詔が出た。
  • 庚申、四方館の上言により、随駕将校や外方の進奉専使のうち文武三品以上は内殿で対見できることとなった。車駕は河陽に赴き皇太后を奉迎した。
  • 辛酉、帝は皇太后を奉じ上東門で百官に迎えられた。河中府の稷山県が絳州に割属された。李紓が宗正卿、楊遘が太僕卿となった。西京昭應県華清宮の道士張沖虚が天尊院の枯れた檜が芽吹いたと奏した。
  • 乙丑、有司の上言により、南郊で皇子繼岌を亞獻、皇弟存紀を終獻とした。丙寅、帝は明堂殿で致齋した。丁卯、太微宮で朝饗し、戊辰、太廟を饗して南郊に赴いた。

  • 二月己巳朔、圜丘で昊天上帝を親祀し、礼を終えて天下に大赦を布告した。十悪五逆・牛の屠殺・私鋳銭・故殺人・毒薬製造・強盗・官吏の贓罪などは赦の対象外とし、功労のあった将校には官を進め賞を加え、文武常参官以下の父母には追贈、生存者には加爵増封を行い、諸藩鎮には各一子の出身と功臣号を与えた。旧梁により害された本朝の内外臣僚には追贈を、俘虜となった婦女は骨肉による識別引取りを認め、顔に刺青をされた男子には証明を与えて放免した。書物献納者の褒賞、天下の戸口・墾田の実数調査による煩苛の是正も命じられた。この日は天候もよく人々は喜んだが、議者は「五十年来これほどの盛儀はなかった」と評した。しかしこれ以降、権臣が横暴になり伶官が実権を握り、吏人孔謙が過酷な取り立てを行って赦で免除したはずの租税をまた課したため、大いに人心を失った。世の乱れはここに始まったという。

  • 庚午、租庸使孔謙が、諸道からの物資輸送が私路を通って商税を逃れる例が多いとして取り締まりを求め、許された。
  • 癸酉、宰臣豆盧革が百官を率いて尊号「昭文睿武至德光孝皇帝」を三度上表し、帝はこれを受けた。
  • 申戌、汴州の管轄県を定める詔が出た。もとの開封・浚儀・封丘・雍丘・尉氏・陳留の六県に加え、旧梁が許州・陳州・鄭州・曹州から割いていた鄢陵・扶溝・陽武・匡城・考城のうち陽武・匡城・扶溝・考城の四県は当面汴州に、残りは元の州に戻すこととした。
  • 丙子、耿瑗が司天監となった。丁丑、李筠が右騎衛上將軍となった。戊寅、帝は李嗣源の邸に行幸し楽を奏させた。己卯、李繼麟が安邑・解県の両池榷鹽使を兼ねた。
  • 辛巳、張全義が守太尉兼中書令河陽節度使河南尹のまま齊王に改封され、李茂貞は開府儀同三司守尚書令として秦王のまま留任し、朝見での不拝・不名を許された(五代會要によれば、この冊封の礼式は故襄州節度使趙匡凝の例に準じ、秦王が自ら革輅・犢車・鹵簿・鼓吹を備えることとされた)。同日、帝は左龍武軍に行幸した。
  • 癸未、豆盧革が百官を率いて中宮冊立を上表し、魏国夫人劉氏を皇后とし所司に礼を備えて冊命させることとなった。
  • 丁亥、李嗣源が検校太尉のまま天平軍節度使として実封百戸を加えられ鉄券を賜った。李存乂が晉州節度使、李存紀が邢州節度使、朱守殷が振武節度使となり、それぞれ検校太傅を加えられた。
  • 戊子、李詔奇が鄭州防禦使、張繼孫が汝州防禦使となった。已丑、李存霸が潞州節度使、李紹琛が陝州節度使、毛璋が華州節度使となった。
  • 壬辰、樞密使郭崇韜が再度辞任を上表したが、優詔により許されなかった。癸巳、皇太后の宮号を「長壽宮」と定める詔が出た。郭崇韜が時務十五件を上奏し、優詔で称賛された。甲午、奚王李詔威・吐渾李詔魯がともに駝馬を貢いだ。
  • 丁酉、馬希範が永州刺史検校太保となった。癸夘、李燕が特進検校司空のまま太常卿を留任、李德休が兵部侍郎、崔協が御史中丞となった。

  • 三月甲辰、故河陽節度使王師範に太尉を贈った。乙巳、符習が青州節度使、李紹斌が滄州節度使となった。鎮州から契丹侵入の報があり、李嗣源に邢州駐屯を命じた。

  • 丙午、荆南節度使高季興が検校太師兼尚書令のまま南平王に封じられ、幽州節度行軍司馬李存賢が検校太保のまま幽州節度使となった。中書門下が諸州の推薦制度を整理し、節度使の管轄州数に応じた奏薦人数の上限(三州以上は三人、以下は二人)を定めた。
  • 巳酉、李琪が刑部尚書となった。庚戌、幽州から契丹が新城に侵入したとの報があり、諸軍将校に功臣号を等級に応じ賜う詔が出た(検校司空以下は叶謀定亂匡國功臣、検校僕射・尚書常侍・諫議大夫は忠果拱衞功臣、憲銜を帯びる者は忠烈功臣、節級長行は扈蹕功臣)。中書門下は州県官の考課について、任期満了時の申送手続きを整え、勤務評定に基づく賞罰を明確にする規定を定めた(五代會要に詳しい規定が引かれる)。
  • 有司の上言により、四月一日に帝が文明殿で徽号の冊を受けることとなり、前日は内殿で散齋することとされた。この頃、伶人景進が用事し宦官が競って進言したため重臣たちは憂懼して辞任を願い出た。李嗣源も上表して兵権を退くことを乞うたが許されなかった。
  • 癸丑、左諫議大夫竇專が租庸使の名目を廃し三司に事務を戻すよう上言したが、聞き入れられなかった。唐州から木連理の瑞が報告された。省員官の詔が出され、すでに他官に任じられた者を除き、左散騎常侍李文矩ら三十人は旧官に復し、太子詹事石戩ら五人は本官のまま致仕、将作少監岑保嗣ら十四人は追って処分することとされた。
  • 丙辰、萊州司戸に責授されていた鄭班ら十一人が近地に量移された。戸部侍郎知貢舉趙頎が卒し、中書舎人裴皥が権知貢舉となった。鉛錫銭の使用が禁じられた。
  • 丁巳、中書門下の上言により懿祖陵を永興、獻祖陵を長寧、太祖陵を建極と名づけることとなった。淮南の楊溥が郊天の礼を賀す使者を送り、多量の錦綺・羅・細茶・象牙・犀角などを貢いだ(十国春秋)。
  • 戊午、南郊行事官はすべて三銓で優遇して処分するよう詔が出た。巳未、張紹珪が安邑・解県両池榷鹽使の制置を担うこととなった。皇子繼岌が張全義に代わり六軍諸衛の事を判ることとなった。癸亥、北平王高萬興が延州・鄜州節度使検校太保兼中書令のまま留任した。甲子、帝は東宅に行幸した。

  • 夏四月己巳朔、帝は文明殿で袞冕を具え尊号「昭文睿武至德光孝皇帝」の冊を受けた。壬申、任圜が検校右僕射として北面水陸転運制置使を権知した。甲戌、華溫琪が検校太保のまま留後を務めた。乙亥、楚王馬殷が守太師兼尚書令のまま留任し、在京の諸道節度使・刺史に本任へ戻る詔が出た。丁丑、李存審が宣武軍節度使となった。

  • 巳夘、帝は文明殿で魏国夫人劉氏を皇后に冊立した。庚辰、郭彥威に紹真の姓名を賜った。癸未、李繼安・李繼沖がそれぞれ検校太尉同平章事のまま宋州・許州節度使に留任し、孔勍が検校太傅同平章事のまま襄州節度使に留任した。
  • 甲午、樞密副使宋唐王・内客省使楊希朗がそれぞれ左右監門衛將軍同正となり推忠匡佐功臣を賜った。車駕は龍門に行幸した。丙戌、回鶻が方物を貢いだ。
  • 巳丑、夏州節度使李仁福が検校太師兼中書令のまま朔方王に封じられ、朔方河西等軍節度使韓洙が検校太傅兼侍中のまま靈州・鹽州・威警・雄州・涼州・甘州・肅州等の観察使を兼ねた。辛卯、李紹宏が右領軍衛上將軍となった。
  • 癸巳、静江軍節度使馬賨が検校太師兼中書令のまま留任し、朗州節度使馬希振が検校太傅兼侍中のまま留任した。鳳翔節度使秦王李茂貞が薨じた。
  • 丙申、潞州の小校楊立が城を拠って叛いたため、李嗣源を招討使、李紹真を副として討伐に向かわせた。