舊五代史卷二十八 唐書第四 莊宗紀二

後唐荘宗(存勗)の天祐9年(912年)から天祐15年(918年)までの事績。幽州の劉守光を滅ぼして河北を平定し、後梁では朱全忠が子の朱友珪に弑逆される混乱に乗じて勢力を拡大した。魏博の帰順を受けて河朔の大部分を制し、契丹の幽州侵攻を撃退し、楊劉城を攻略、胡柳陂の戦いで梁軍を破ったが功臣周徳威を失った。

年表(9件)

天祐九年(912年)

  • 春正月、周徳威らが飛狐から東下し、丙戌に鎮州・定州の軍と合流して祁溝に進軍。庚子に涿州へ至り、刺史劉知温が開城して帰順した。徳威はさらに幽州に迫り、劉守光は出撃して迎え撃ったが、燕将王行方ら部下四百人が来降した。
  • 二月庚戌朔、梁祖(朱全忠)は河南の全軍を動員して劉守光救援に向かい、陝州節度使楊師厚を招討使、河陽の李周彝を副とし、青州の賀徳倫を応接使、鄆州の袁象先を副とした。甲子、梁祖は洛陽から魏州へ進み、楊師厚・李周彞に鎮州の棗強を、賀徳倫に蓚県を攻めさせた。
  • 三月壬午、梁祖自ら棗強を攻め、甲申に落城させ屠殺した。このとき李存審と史建瑭は三千騎で趙州に屯していたが、梁軍が蓚を落とせなければ西の深州・冀州を攻めるだろうと考え、八百騎で冀州へ急行し下博橋を扼した。史建瑭・李都督は捕虜を得て梁軍を欺き、夜に賀徳倫の陣営へ火を放って梁軍を敗走させ、輜重を奪った。梁祖はこれを聞いて驚き、棗強から貝州へ逃げ、敗軍の将張正言・許従実・朱彦柔を誅殺した。梁祖はもともと持病があり、これでさらに悪化した。辛丑、滄州の張万進が留後劉継威を殺して自ら滄州の主となり、梁・唐双方に降伏を申し入れた。戊申、周徳威は李存暉に瓦橋関を攻略させた。
  • 四月丁巳、梁祖は病篤く魏から南へ帰った。戊申、李嗣源が瀛州を攻略した。
  • 五月乙夘朔、周徳威が羊頭崗で燕軍を大破し、大将単廷珪を捕らえ首五千余級を斬った。徳威は涿州から幽州城下まで進軍。閏月己酉、幽州西門を攻め、出撃した燕軍を敗った。
  • 六月戊寅、梁祖が子の朱友珪に弑逆され、友珪が洛陽で帝位を僭称した。秋八月、朱友珪は韓勍・康懐英・牛存節に兵五万を率いさせ河中を急襲、朱友謙が救援を求め、帝は李存審に救援を命じた。十月癸未、帝は澤州から河中へ向かい、平陽で梁将康懐英を破り千余級を斬り、白徑嶺まで追撃した。朱友謙は猗氏で帝と会し、梁軍は囲みを解いて撤退した。庚申、周徳威は劉守光が三度和睦を求めたが応じなかったと報告した。丁夘、燕将趙行実が来降した。

天祐十年(913年)

  • 春正月丁巳、周徳威が順州を攻略し刺史王在思を捕らえた。二月甲戌朔、安逺軍を攻略し燕将十八人を捕虜とした。庚寅、梁の朱友珪が部将袁象先に殺され、均王朱友貞が汴州で即位した。丙申、周徳威は檀州刺史陳確の降伏を報告した。三月甲辰朔、盧台軍を収め、乙丑に古北口を収めた。居庸関使胡令珪ら諸戍将が族を挙げて来降した。丙寅、武州刺史高行珪が使者を送り降伏を申し入れた。劉守光の将元行欽が山北で牧馬中、高行珪の変事を聞いて攻撃したが、行珪は弟の行温を人質に出して援軍を乞い、周徳威は李嗣源・李嗣本・安金全に武州を救援させ元行欽の降伏を得た。
  • 四月甲申、燕将李暉ら二十余人が族を挙げて来降した。徳威は幽州南門を攻めた。壬辰、劉守光は王遵化を遣わして哀訴の書を送り、徳威は戯れに応じつつ帝に報告した。已亥、劉光濬が平州を攻略し刺史張在吉を捕らえた。五月壬寅朔、光濬は営州に迫り刺史楊靖が開城降伏した。乙巳、梁将楊師厚が劉守竒と共に鎮州を侵し、帝の先鋒史建瑭が趙州から五百騎で真定に入った。師厚は鎮・冀の属邑を掠奪し、王鎔は周徳威に急を告げ、徳威は分兵して援護、師厚は滄州へ転じたが張万進は懼れて梁に降った。
  • 六月壬申朔、帝は監軍張承業を幽州に遣わし周徳威と軍議させた。秋七月、承業と徳威は千騎で幽州西に至り、守光は信箭を送って和睦を求めたが、承業は子弟を人質に出すよう要求した。この日燕将司全爽ら十一人が族を挙げて来降した。辛亥、徳威は諸城門を攻撃した。壬子、賊将楊師貴ら五十人が降伏した。甲子、五院軍使李信が莫州を攻略した。守光は降伏を装い時間を稼ぎつつ密かに孟修・阮通を通じ滄州節度使劉守竒や楊師厚に援軍を求めたが、使者は捕らえられた。この月帝は天長で王鎔と会見した。
  • 九月、劉守光は夜に軍を出して順州を陥落させた。冬十月己巳朔、守光は騎兵七百・歩兵五千で檀州へ夜襲。庚午、周徳威は涿州から追撃。壬申、守光は檀州南山から逃走したが徳威が追撃して大敗させ、大将李劉・張景紹と将吏八百五十人・馬百五十匹を捕獲した。守光は百余騎で山谷に逃げ込み、徳威は幽州城門を扼した。守光は親将李小喜ら七騎で燕城へ逃げ込んだ。己丑、守光は牙将劉化修・周遵業らを遣わして哀訴した。庚寅、守光は病と称して自分の馬を徳威の馬と交換し逃げようとしたが失敗し、劉光濬は守光配下の偽殿直二十五人を捕らえて軍門に送った。守光はなお城上から徳威に、晋王到着を待って降伏すると告げ、徳威は急使で帝に報告した。
  • 十一月已亥朔、帝は幽州親征を命じた。甲辰、晋陽を発ち、己未に范陽へ至った。辛酉、守光は礼幣を捧げ帰服を申し出たが、帝が単騎で城に迫ると親将李小喜に阻まれて約を果たせず、この夜小喜が来降した。帝は諸軍に翌朝の攻城を命じた。壬戌、梯・櫓で総攻撃し、帝は燕丹の塚に登って観戦、まもなく劉仁㳟が捕らえられ献上された。癸亥、帝は燕城に入城し諸軍が祝賀した。十二月庚午、周徳威に幽州節度使の墨制を授けた。癸酉、檀州燕楽県の民が劉守光とその妻李氏・祝氏、子の継祚を捕らえて献上した。己夘、帝は雲州・代州経由での班師を命じた。このとき鎮州の王鎔・定州の王処直が井陘経由の西進を願い出て許可された。庚辰、帝は幽州を発ち、劉仁㳟父子を連行した。甲申、定州の関城に宿営し、翌日曲陽で王処直と北岳祠に参拝、この日衡唐に至り、鎮州の王鎔が路上で出迎えた。

天祐十一年(914年)

  • 春正月戊戌朔、王鎔は元日に子の昭祚・昭誨と共に帝に献杯し宴を催した。王鎔は劉太師(劉仁㳟)を対面させることを提案し、帝はこれを許して仁㳟・守光を宴に同席させ、王鎔は衣類・飲食を贈った。已亥、帝は鎮州を発ち王鎔と衡唐西で狩猟。壬子、晋陽に至り、仁㳟・守光を鋤の刃で縛って入城させ、この日守光を誅殺した。大将李存霸を代州へ遣わし仁㳟を護送、武皇陵前で心血を注いで祭った後に斬った。この月鎮州の王鎔・定州の王処直は帝を尚書令に推した。もとは王鎔が梁に臣従し梁から尚書令に任じられていたが、帝が南で梁軍を破り北で幽薊を平定したことでこれを推戴、三度の使者を経て帝はついに受諾し、開霸府を建て行台を設置した(武徳の故事に倣う)。秋七月、帝は自ら黄沙嶺から東進、鎮州の兵と合流して邢州・洺州へ進んだが、梁将楊師厚は漳水東に布陣し、帝は張公橋に布陣するも副将曹進金が梁へ出奔したこともあり帝軍は不利となり撤退した。八月、晋陽へ帰還した。

天祐十二年(915年)

  • 三月、梁の魏博節度使賀徳倫が使者を送り盟約を求めた。楊師厚が魏州で没し、梁主は相・衛・澶の三州を割いて別の一鎮とし、徳倫を魏博節度使、張筠を相州節度使としたが、魏の人々はこれに従わなかった。この月二十九日夜、魏軍が反乱し徳倫を牙署に幽閉、三軍が略奪した。首謀者張彦は徳倫に六州の地を返還するよう梁主に上表させたが梁主は応じず、徳倫はやむなく帝に帰順し援軍を乞うた。帝は馬歩副総管李存審に趙州から臨清への出兵を命じ、自らも晋陽から東進して合流した。賀徳倫の従事司空頲が密かに張彦の横暴を訴え、帝は永済へ進軍した。張彦は銀槍効節五百人を率いて謁見、帝は楼上から民への暴虐を諭し、張彦とその同悪七人を斬らせ、軍は震撼した。帝は張彦配下の兵を帳前銀槍都として編成した。
  • 梁将劉鄩は精兵一万で洹水から魏県へ向かい、帝は李存審に迎撃させ、自らは魏県西北に布陣。六月庚寅朔、帝は魏州に入城、賀徳倫は符印を献じ魏州兼領を求め、帝はこれを許して徳倫を大同軍節度使に任じ赴任させた。貝州の張源徳は梁に呼応して抵抗を続け滄州とも連携していたが、徳州が手薄と知り別将に急襲させ攻略、遼州の牙将馬通を徳州刺史として滄・貝の道を扼した。秋七月、梁の澶州刺史王彦章は城を棄てて逃亡し、李巖を澶州刺史とした。帝は魏県で百余騎を率いて梁軍陣営を偵察中、劉鄩の伏兵五千に遭遇し数十重に包囲されたが、百騎で突破して脱出した(援軍到着で解囲)。帝は「危うく賊に笑われるところだった」と述べた。
  • この月劉鄩は密かに黄沢経由で晋陽へ向かったが樂平で引き返し、宗城に布陣した。劉鄩は洹水で数日姿を隠し(無人を装う計略)帝の偵察を欺いたが露見し、帝は追撃を命じた。連日の霖雨で梁軍は疲弊、山道の悪路もあって多数が凍死・溺死した。梁軍は宗城に至り、魏の食糧が乏しい臨清の蓄えを占拠した。周徳威は幽州から千騎で土門に至り、宗城の劉鄩軍を襲って斥候を捕らえ手を斬って送り返した。徳威は臨清に至り、劉鄩は貝州へ移動、帝は博州、劉鄩は堂邑に布陣した。周徳威は五百騎で追撃、劉鄩は莘県に布陣、両軍は連日交戦した。八月、梁将賀瓌が澶州を奪取した。帝は李存審に兵五千で貝州を攻めさせ包囲した。冬十月、劉鄩軍から投降者があり、劉鄩が帝の食事に毒を盛ろうとした陰謀が密告により発覚し、関係者は誅殺された。

天祐十三年(916年)

  • 春二月、帝は劉鄩が速戦を図っていると察し、晋陽へ帰還すると偽って誘い出し、実際は貝州で軍を休ませ李存審に守備させた。劉鄩は帝がすでに晋陽に戻ったと信じ鄴を襲おうとし、将楊延直に澶州から一万の兵で城下に集結させたが、城中から壮士五百人が夜襲し梁軍は混乱した。劉鄩は莘県から軍を率いて城東で延直軍と合流、李存審が後方から追い、李嗣源が魏城から出撃、帝も貝州から到着すると劉鄩は帝を見て驚き退却した。李存審の大軍は元城西で方陣を形成、梁軍はその中で円陣となり四面から攻撃を受けた。初戦で梁軍は後退し、劉鄩は騎兵で西南に突破を図るが帝軍が追撃、歩兵戦でも帝軍が包囲し撃破、梁の歩兵七万がほぼ全滅し多くが河に落ちて溺死した。劉鄩は黎陽から滑州へ逃走した。この月、梁主は別将王檀に五万の兵を与え陰地関から晋陽を急襲させたが、昭義の李嗣昭が将石嘉才に騎兵三百で援軍を送り、安金全・張承業が城を守って内外呼応、王檀は営を焼いて撤退し陰地関まで追撃された(劉鄩の莘県敗戦とあわせ王檀も晋陽から退却し、梁主は「事去れり」と嘆いたという)。
  • 三月乙夘朔、衛州を攻め、壬戌に刺史米昭が開城降伏した。夏四月、洺州を攻略した。五月、帝は晋陽へ帰還した。六月、邢州の閻寳を偏師で攻めるよう命じ、梁主は捉生都将張温に歩騎五百を援軍として送ったが、温は内黄で帝に投降した。秋七月甲寅朔、帝は晋陽から魏州へ。八月、大規模な閲兵の後、邢州・相州を攻撃、相州節度使張筠は城を棄てて逃亡し、袁建豐を相州刺史として魏州に隷属させた。邢州節度使閻寳は開城降伏、忻州刺史・蕃漢副総管李存審を邢州節度使とし、閻寳を西南面招討使・遥領天平軍節度使とした。この月契丹が蔚州に侵入し、振武節度使李嗣本が陥落した。九月、帝は晋陽に帰還した。梁の滄州節度使戴思逺は城を棄てて逃亡、旧将毛璋が入城を占拠、李嗣源が招撫し璋は開城降伏、李存審を滄州節度使、李嗣源を邢州節度使とした。契丹が国境を侵犯し、帝は親軍で北征し代州北で蔚州陥落を知り撤兵した。この月貝州が平定され、滄州からの降将毛璋を貝州刺史とし、以後河朔は帝の支配下となった。帝は晋陽から再び魏州へ。

天祐十四年(917年)

  • 二月、帝は劉鄩が残兵を集め黎陽を守っていると聞き攻撃したが攻略できず撤退した。この月甲午、新州将盧文進が節度使李存矩を殺害し契丹に投降、契丹軍を率いて新州を侵した。存矩は帝の弟であったが統治に失政があり民の怨みを買い禍を招いた。帝は契丹王按巴堅(阿保機)とはかつて雲中で結盟し兄弟の約を結んでいたのに、その盟約に背いて反逆者を受け入れ国境を侵したことを咎める書を送った。契丹は新州を猛攻、刺史安金全は城を棄てて逃亡、契丹は文進配下の劉殷を刺史とした。帝は周徳威に兵三万で攻撃させ城東に布陣したが、まもなく盧文進が契丹の大軍を率いて到着したため徳威は撤退、契丹に追撃され多くの兵を失った。契丹は勝ちに乗じて幽州を侵し、その兵力は五十万とも百万とも噂され、漁陽以北の山谷は氈車・毳幕・羊馬で満ちた。盧文進は幽州の逃亡者を誘い契丹に攻城兵器(飛梯・衝車など)の製造を教え、城下に配備し地下道を掘り土山を築くなど半月にわたり攻城戦術を尽くしたが、城中はかろうじて持ちこたえた。
  • 徳威は間道を通じ急使で帝に報告、帝は憂慮し諸将と会議した。李存審は速やかな救援を主張、李嗣源は突騎五千を求め、閻寳は精鋭を選び険要に伏兵を置く策を提案、帝は「三将あれば憂いなし」と応じた。夏四月、李嗣源に淶水への出兵を命じ、閻寳は夜に祁溝を通過し捕虜を得て帰還した。周徳威は李嗣源に、契丹は三十万おり馬牛の数も知れないが近日食糧の羊馬は半減し、按巴堅は盧文進の背信を深く悔い、契丹の精兵も分散して狩猟中で按巴堅の本陣は一万に満たないため夜襲すべきだと伝えた。秋七月辛未、帝は李存審に軍を与え李嗣源と易州で合流させ、歩騎あわせて七万とした。三将は策を練り、静粛に山谷を進み幽州へ直行した。八月甲午、易州から北へ山沿いに進軍、李嗣源は三千騎で先鋒となった。庚子、大房嶺を経て東へ進み幽州まで六十里の地点で契丹の一万騎と遭遇、存審・嗣源が力戦して契丹を大敗させ、氈幕・弓矢・羊馬などを多数捨てさせ、追撃して多数を捕虜・斬殺した。辛丑、大軍が幽州入城、徳威は諸将と手を握り合い涙を流した。翌日、鄴へ勝報を届け、九月に班師した。帝は李存審を検校太傅、李嗣源を検校太保、閻寳に同平章事を加えた。
  • 十月、帝は魏州から晋陽へ、十一月に再び魏州へ。十二月、帝は河上で観兵、梁軍は楊劉城に柵を連ねて対峙、帝は河の氷を渡って諸柵を平定し楊劉城を攻撃した(守兵三千)。騎兵で城を囲み馳射し、歩兵に鹿角を切らせ葭葦で堀を埋め、帝自ら土嚢を担いで進み、諸軍が鼓譟して登城しついに陥落、守将安彦之を捕えた。この夜帝は楊劉に宿営した。

天祐十五年(918年)

  • 春正月、帝は鄆・濮方面へ進軍、梁主は洛陽で郊祀の準備中に楊劉陥落を聞き狼狽して帰還した。二月、梁将謝彦章が数万の兵で楊劉に迫り塁を築いて対峙、さらに黄河を決壊させ数里にわたり氾濫させて帝軍を阻んだ。六月壬戌、帝は魏州から楊劉へ再進、甲子に諸軍を率いて渡水、梁軍は水際で防戦し帝軍は一時後退したが鼓譟して再攻、梁軍は退却し追撃戦で川中で激突、梁軍大敗、死傷多数で河水が紅く染まるほどであった。謝彦章はかろうじて逃げ延びた。この月淮南の楊溥が使者を送り梁討伐のための連携を求めた。
  • 秋八月辛丑朔、魏郊で大規模な閲兵。河東・魏博・幽・滄・鎮・定・邢・洺・麟・勝・雲・朔の十鎮の兵、および奚・契丹・室韋・吐渾の兵あわせて十余万、陣容は近代最盛といわれた。已酉、梁の兖州節度使張万進が帰服を申し出た。帝は魏州から楊劉へ進み、鄆・濮方面まで略地して帰還、麻家渡に布陣し諸鎮の陣営十数か所を連ねた。梁将賀瓌・謝彦章は濮州行台村に布陣し百余日対峙した。帝は数百騎で塁に迫り挑発したが、謝彦章は精兵五千を堤下に伏せ、帝は包囲されるも騎軍の増援で脱出して反撃、李存審が到着し梁軍は退却した。この時期帝は接戦を好み、単騎で陣を出るたびに李存審が馬を止めて諫めていたが、存審の隙をついて出撃し危険な目に遭い、存審の忠言を思い知った。
  • 十二月庚子朔、帝は梁軍の柵から十里の地点まで進軍した。梁将賀瓌が騎将謝彦章を軍中で殺害し、帝はこれを聞き「賊将同士で共食いするとは、滅びぬはずがない」と評した。戊午、老幼を魏州へ帰し全軍で汴州を目指すよう命じた。庚申、大軍が営を壊して進軍。辛酉、臨濮に布陣、梁軍は営を棄てて後を追った。癸夘、胡栁陂に布陣、翌朝梁軍も到着し数十里にわたり対陣した。帝と李存審が中軍を率い、周徳威は幽薊の兵で西を、鎮定の兵で東を担当した。梁将賀瓌・王彦章が全軍で交戦、帝は銀槍軍で梁陣を突破し十余里にわたり斬撃、賀瓌・王彦章は単騎で濮陽へ逃走した。帝軍の輜重が陣の西にあり、梁軍の旗を見て驚き潰走、混乱を制御できず帝の一軍がまず敗れ、周徳威は戦死した。
  • この時陂中に土山があり梁軍数万が先に占拠、帝は中軍を率いて山下に至ったが梁軍の陣容は堅固であった。帝は諸軍に「今日の戦、山を取った方が勝つ」と呼びかけ自ら先陣を切って銀槍歩兵と共に山を奪った。梁軍は敗走し土山西で再び陣を組んだ。日暮れ、一部の将は明朝の再戦を提案したが、閻寳は「深く敵地に入った以上、決戦すべき」と主張、銀槍都将王建及も「敵将はすでに逃げ、我が騎兵は無傷、今こそ攻めるべき」と進言した。李嗣昭が土山北から梁軍に迫り、王建及は「今日失った輜重は皆山下にある」と呼びかけ、諸軍が続いて突撃、梁軍は大敗した。元城令呉瓊、貴郷令胡装は各万人の人夫を動員し柴を曳き塵を上げ鼓譟して勢いを助け、梁軍はこれを実勢と誤認しさらに混乱、甲子に戦場の鎧・武具を収拾した。梁の敗残兵で大梁に逃げ込んだ者は千人に満たなかった。帝軍はついに濮陽を攻略した。