舊五代史卷十八 列傳八 張文蔚・薛貽矩・張策・杜曉・敬翔・李振

本篇のうち対象とするのは張策・敬翔・李振の3人。いずれも後梁の文臣として仕えたが経歴と最期は対照的である。張策(字少逸、燉煌の人、?–912年)は仏教にも通じた学者肌の官僚で、韓建を経て太祖に仕え刑部尚書に至り、致仕後は洛陽で悠々自適に過ごして没した。敬翔(字子振、同州馮翊の人、?–923年頃)は太祖草創期からの腹心の謀臣で宰相にまで昇ったが、梁の滅亡に際し自ら首を吊って節を守った。李振(字興緒、?–923年頃)は唐末の政変に暗躍し「清流」派官僚の粛清を進言したことで知られ、梁滅亡後は後唐に一時降ったが、まもなく敬翔らと共に一族誅殺された。

年表(12件)

張文蔚

  • 字は右華。河間の人。父裼は唐の僖宗朝でたびたび顕官を務めた。文蔚は幼くして文行を磨き、交友を求めて才士との誉れがあった。唐の乾符初年(874年頃)進士に及第し、丞相裴坦が塩鉄を兼判した際、初仕官として巡官に任じられた。まもなく畿県尉として直館となり、父の喪に服して孝で知られた。
  • 中和年間(881-885年)、僖宗が蜀にあり大乱が未だ収まらず軍費が急を要していた頃、塩鉄を揚州へ移し李都にこれを判じさせると、上奏により転運巡官とされた。車駕が長安に還ると監察御史に任じられ、左補闕・侍御史・起居舎人・司勲吏部員外郎を経て、司勲郎中・知制誥を拝命し、任期満了で中書舎人に任じられた。母の喪に服して東畿に退き哀毀は礼を超え、喪が明けると再び中書舎人を拝命し、まもなく翰林に召され承旨学士となった。
  • 昭宗が京師に還った当初、皇綱はしだいに衰えていたが、文蔚の発する詔令は正鵠を得ないものがなく、論者はこれを多く評価した。戸部侍郎に転じ、なお前職を兼ね、まもなく礼部侍郎として出た。天祐元年(904年)夏、中書侍郎・平章事を拝命し戸部を兼判した。
  • 当時、柳璨が宰相の位にあり権力を専らにし暴虐の限りを尽くし、賢俊を陥れ、宰相裴枢ら五家および三省以下三十余人がことごとく冤罪で処刑された。士人たちは目を伏せて是非を論じることさえできず、璨の怒りの余波が及んだ者も十数人に上った。文蔚は力を尽くしてこれを解いたことで事態は収まり、士人たちはこれに頼った。璨が敗死した後、文蔚は度支塩鉄使を兼ねた。
  • 天祐4年(907年)、天子は土運(唐の徳運)が革まり天命が帰する所を感じ取り、4月、文蔚に楊渉らとともに百僚を率いて禅位の詔を奉じさせた。詔が大梁に至り太祖が受命した後も、文蔚らはその位を変えなかった。開平2年(908年)春、在官のまま急死し、右僕射を追贈する詔が下された。
  • 文蔚は深沈重厚で大臣の風格があり、家にあっては孝悌を尽くし、位が高くとも弟たちと太夫人の膝下に打ち解けて交わり、庶民の家と何ら変わらなかった。弟の済美は早くに心の病を患った。文蔚はほぼ三十年にわたり彼を看護し、士君子はこれを称えた。子の鑄は周の顕徳年間、秘書監に至った。

薛貽矩

  • 字は熙用。河東聞喜の人。祖父存、父廷望はともに令名があった。貽矩は風采秀麗で、彼と交わる者は皆当代の英才であり、文壇でも高い評判を得た。唐の乾符年間、進士に及第し度支巡官・集賢校理・拾遺・殿中・起居舎人を歴任し、翰林学士に召され礼部員外郎・知制誥を加えられ、司勲郎中に転じたが職務は元のままであった。
  • 乾寧年間、天子が石門へ幸した際、貽矩は私事で従者とはぐれ行在に及ばず罷免された。まもなく中書舎人に任じられ、再び翰林に入り戸部・兵部侍郎、学士承旨を歴任した。昭宗が鳳翔から都に還り宦官を大いに一掃した際、貽矩はなお韓全誨らのために画像を賛美する文を作り内侍省の壁に記していたため、この罪により左遷された。天祐初年、吏部侍郎に任じられたが赴任せず、太祖はもとより貽矩を重んじ朝廷でその名を挙げると、即日吏部尚書を拝命し、まもなく御史大夫に遷った。
  • 天祐4年(907年)春、唐帝は貽矩に詔を持たせ大梁に赴かせ禅代の事を議させた。貽矩は至って太祖の功徳を盛んに称え、自ら北面の礼を取ろうとしたが、太祖は謙抑してこれを受け入れなかったものの、至って厚く遇した。受禅の年の夏5月、中書侍郎・平章事兼判戸部を拝命した。翌年夏、門下侍郎・監修国史・判度支に進み、また弘文館大学士・塩鉄転運使を兼ねた。官は僕射から守司空に累進し在位五年に及んだが、特に顕著な事跡は伝わらない。太祖の貝州扈従から帰る途中、時疫にかかり十日ほどで東京で没した。侍中を追贈する詔が下された。

張策

  • 字は少逸。燉煌の人。父同は唐に仕え官は容管経略使に至った。策は幼くして聡明で学問を好み、特に文章を楽しんだ。洛陽敦化里に住んでいた頃、甘泉井を浚った際に古い鼎が出土し、耳に篆字で「魏黄初元年春二月匠吉千造」と刻まれ、作りも精巧で人々は大いに珍重した。策は父の傍で「建安25年、曹操が薨じ年号を延康と改めた。同年10月、文帝が漢の禅を受けて初めて『黄初』と称した。それなら黄初元年に二月はないはずだ、この鼎の文字はどうして誤っているのか」と静かに述べた。同は大いに驚いて書室から『魏志』を取り寄せ調べたところ、策の言った通りであり、宗族はこれを奇とした。当時わずか13歳であった。
  • しかし策は因果の理に精通し空教(仏教)を篤く信奉し、二十歳前に髪を落として僧となり雍州の慈恩精廬に住み高い風格を持つに至った。広明末年(880年頃)、大盗(黄巣)が都を犯すと、策は再び俗に戻り父母を奉じて難を逃れ、君子たちはこれを称えた。父の喪に服すと孝で知られ、喪が明けても郊外に隠棲し十余年、出仕への意欲を全く示さなかった。ようやく広文博士として出仕し秘書郎に改められた。王行瑜が邠州の帥となると観察支使に招かれ水曹員外郎を帯び緋衣を賜った。
  • 行瑜が反乱を起こすと、太原節度使李克用は詔を奉じてこれを討伐し、行瑜は敗死し邠州は平定された。策は婢とともに親を輿に乗せ邠州の境を南へ出たが、辺境の寨には雪が積もり、行く人々がこれを哀れんだ。太祖はこれを聞いて嘉し、鄭滑支使に表した。まもなく母の喪により職を離れたが、喪が明けると国子博士に任じられ膳部員外郎に遷った。一年も経たず華州の帥韓建に判官として招かれ、建が許州を領すると掌記となった。
  • 天復年間、策はその主(韓建)の書幣を奉じて太祖のもとへ聘問に赴いた際、太祖はこれを見て喜び「張夫子が来たか」と言い、即座に掌記に任じ金紫を賜った。天祐初年、その才を表し職方郎中兼史館修撰を拝命し、まもなく翰林学士に召され、兵部郎中・知制誥に転じつつ修史はそのまま兼ねた。まもなく中書舎人に遷るも職務はそのままであった。
  • 太祖の受禅後、工部侍郎に改められ承旨を加えられ、その冬礼部侍郎に転じた。翌年、太祖の親征に従い澤州に至った際、刑部侍郎・平章事を拝命し戸部を判じた。まもなく中書侍郎に還ったが、風病により上表して致仕を願い出て刑部尚書に改められ致仕した。日々輿に乗って洛陽に帰り福善里に住み、竹林や佳木を眺め図書・琴・酒を楽しんで自適した。乾化2年(912年)秋に没した。著した『典議』三巻、詞制歌詩二十巻、牋表三十巻がその家に伝わる。

杜曉

  • 字は明遠。京兆杜陵の人。祖父審権は唐に仕え宰相に至り、父譲能は官が守太尉・平章事に至った。乾寧年間、邠州・鳳翔の二鎮が兵を挙げて王畿を犯した際、譲能はこの事件に誣告され、天子はやむを得ず臨臯駅で彼に死を賜った。曉は喪に服して柴のように痩せ細り命を落としかけるほどであったが、喪が明けても幅巾を身につけ十余年間世を避けて自ら出仕を控えた。
  • 光化年間、宰相崔胤が塩鉄を判じた際、巡官兼校書郎に招かれたが、まもなく畿尉・直弘文館に任じられても出仕しなかった。昭宗の東遷に際し宰相崔遠が戸部を判じ、再び巡官兼殿中丞に招かれた際、ある人が曉に「嵆中散(嵆康)が死んだ後、その子紹は世に埋もれて出仕しなかったが、山濤が道理を説いて仕えさせた。あなたは杜氏の子孫が年ごとに莚を敷いて祖先を祭るだけの身のままでよいと思われるのか」と諭したため、曉はついに出仕した。まもなく左拾遺を拝命し、翰林学士に召され、膳部員外郎に転じつつ職務はそのままであった。崔遠が罪を得て外任となった際も、曉は数ヶ月本官のまま知制誥を兼ね、まもなく再び学士に召され郎中に遷り職務を続けた。
  • 太祖の受禅後、中書舎人を拝命し職務はそのままであった。開平3年(909年)工部侍郎に転じ承旨を兼ね、翌年秋、中書侍郎・平章事を拝命し戸部を判じた。庶人友珪の簒位後は礼部尚書・平章事・集賢殿大学士に遷り戸部の判は元のままであった。袁象先が友珪を討った際、禁兵が大いに乱れ、曉は重傷を負って没した。末帝の即位後、右僕射を追贈する詔が下された。曉は博識で文才に富み、当時の評は高かった。
  • 兄の光乂は心の病があり、その発作の際は口から泡を吹いて罵り、あるいは棒を振るって追いかけ回すこともあったが、曉はますます恭しく仕え一日たりとも怠ることがなかった。両制(翰林・中書)の重職にあって前朝の制度を祖述しよく王言の体を得ていた。尚書に至って志気はますます高かったが、突然理不尽な形で没し、人々は皆これを痛惜した。三世にわたり宰相を出した家系ゆえ、あまりに盛んなことを天が忌んだのだろうか。

敬翔

  • 字は子振。同州馮翊の人。唐の神龍年間(705-707年)の平陽王暉の後裔である。曽祖琬は綏州刺史、祖父忻は同州掾、父袞は集州刺史であった。翔は読書を好み、特に文書作成に長じ応用も敏捷であった。乾符年間、進士を挙げたが及第せず、黄巣が長安を陥落させると東へ関を出た。
  • 当時、太祖は大梁に鎮を始めたばかりであったが、観察支使の王発という者が翔と同郷であったため頼ったところ、発は旧知の礼で遇したものの推挙の機会がなかった。翔は長く困窮していたが、人に頼まれて書簡を代作すると、しばしば警句を含み軍中に伝わった。太祖はもとより文字に疎く浅近な言葉を好んだため、翔の作を聞いて気に入り、発に「あなたの同郷に才ある者がいると聞く、連れて来てほしい」と告げた。会見して応対が意にかなうと即座に要職に補し、常に従軍させようとしたが、翔は武職を好まず文吏への配置を求めたため、館駅巡官に任じ書簡・上奏を専管させた。
  • 太祖が蔡の賊と数年にわたり対峙していた頃、城門の外で戦声が絶えない中、機略の面で翔がしばしば関わり、太祖は大いに喜び、翔を得るのが遅かったことを悔しがるほどで、軍謀政術はすべて彼に諮った。蔡の賊平定後、太子中允を授かり緋衣を賜り、兖州・鄆州の平定後は検校水部郎中に改められた。太祖が淮南を兼鎮すると揚府左司馬を授かり金紫を賜った。乾寧年間、光禄少卿に改められつつ職務はそのままであった。天復年間、検校礼部尚書・遥領蘇州刺史を授かった。
  • 昭宗が岐(鳳翔)から長安へ還り延喜楼に臨んだ際、翔を李振とともに楼に召し労いを行った。翔は検校右僕射・太府卿を授かり「迎鑾協賛功臣」の号を賜った。太祖の受禅後、宣武軍掌書記・前太府卿から検校司空を授かり、なお太府卿として宣徽院事を勾当した。まもなく枢密院を崇政院に改め、翔がその院事を知った。
  • 開平3年(909年)夏4月、太祖は邠州・岐州の侵擾により劉知俊に西方の鄜州・延州を討伐させたが深く懸念していた際、宴の折に翔を顧みて西方の事情を尋ねると、翔は山川・郡邑の虚実、軍糧の多寡をすべて条理立てて奏上し、まるで日頃から研究していたかのようで、左右の者は皆驚嘆した。太祖もこれに長く感嘆した。乾化元年(911年)、光禄大夫・行兵部尚書・金鑾殿大学士・知崇政院事・平陽郡侯に進んだ。前朝は金鑾坡にちなんで門の名とし翰林院と隣接していたため、学士に任じられた者を「金鑾」と美称した。今の殿名「金鑾」も嘉名に従ったものである。大学士の職はここに始まり翔が初めて任じられた。
  • 翔は初出仕以来、覇王(太祖)の知遇を得て、深く経世済民の略を抱いていた。中和年間から鼎革の大業に至るまで、その間三十余年、征伐に扈従し出入りは常に幕中にあり、庶務が絶えず夜が明けるまで眠らず、馬上でわずかに休息を取るのみであった。何か助言する際も決して顕には諫めず、態度や仕草の間にわずかに疑念を示すだけであったが、太祖はその意を察してすぐに改めたため、その補佐の跡は人々に知られることがなかった。太祖が病篤くなった際、御床の前に召され後事を託され、また晋(李克用)との戦を深く悔いる言葉を残すと、翔は嗚咽して命を受けかね退いた。
  • 庶人友珪の簒位に際し、天下の望みにより翔を宰相に任じたが、友珪は翔が先朝の旧臣であることを畏れ忌み、翔もまたしばしば病と称して政務に関わらなかった。末帝の即位後、趙・張の一族が権要の地位を占め、翔はますます不遇となった。劉鄩が河朔を失い安彦之が楊劉で敗れると、翔は奏上して「国家は連年将を派遣し出征させているが、国境は日々削られている。これは兵が驕り将が怯懦であるだけでなく、統制の方策が得られていないことにもよります。陛下は深宮にあって計を議す相手は皆左右の側近ばかりです、どうして敵の勝敗を測れましょうか。先帝の御代には河朔の半ばは自ら虎臣・驍将を率いていながら、なお敵に対して意を得なかったのです。今、敵の軍馬はすでに鄆州に至っているのに、陛下がこれに聖念を留めておられないのは、私が理解しがたい第一の点です。私が聞くところ、李亜子(李存勗)は墨衰(喪服のまま)で軍を統率することすでに十年、城を攻め陣に臨むたびに自ら矢石に当たっています。先ごろ楊劉を攻めた際も自ら薪を背負って川を渡り、一気に城壁を落としたと聞きます。陛下は儒雅で文を守るばかりで、そのようなことはなさったことがありません。賀瓌らに力比べをさせて敵を追い払おうとされても、私には理解しがたい第二の点です。陛下は老臣に相談し、深く思案すべきです。そうでなければ憂いは尽きないでしょう。私は不才で臆病な身ですが国恩を深く受けており、もし陛下が人材に乏しいとお考えなら、辺境で力を試させていただきたい」と述べた。末帝はその真意を知りながらも、結局趙・張らの言葉により翔の意見を怨みと受け取り聞き入れなかった。
  • 王彦章が中都で敗れ晋の人々が南下してくると、末帝は急いで翔を召し「私は日頃お前の奏上を軽んじていたが、果たして今日の事態を招いた。事は急を告げている、恨みに思わないでくれ、私はどこへ行けばよいのか」と告げた。翔は泣いて奏上した。「臣は国恩を受けほぼ三十六年、下級から高位に至るまで皆先朝の御引き立てによるものです。名は宰相とはいえ、実は朱氏の老僕に過ぎません。陛下にお仕えすることも郎君に仕えるようなものです。愚かながら誠意をもって隠すことはありません。陛下が初めて段凝を将に任じられた際、私はすでに小人が徒党を組んでいることを厳しく諫めましたが、今日の事態を招いてしまいました。晋の軍がすでに至った今、段凝は黄河を頼りに陛下に狄(晋)を避けて出御されることを請おうとするでしょうが、陛下は必ずこれを聞き入れないでしょう。奇策で応戦することを請おうとしても、陛下は必ず果断に決められないでしょう。たとえ張良・陳平が再び生まれても、これを覆して福に転じるのは難しいでしょう。私は先に死んで、宗廟が滅び去るのを見ることに忍びません」と。言い終えると君臣は向き合って慟哭した。
  • 晋主が都城を陥落させると、詔で梁の臣下を赦す旨が下った。李振は翔に「詔書があり、罪を洗い清め新君に朝することになった」と告げると、翔は「新君がもしその企ての経緯を問えば、何と答えればよいのか」と答えた。その夜、翔は高頭里の邸宅で車坊に宿ったが、明け方近くに左右の者が「崇政院の李太保(振)はすでに参朝した」と報告すると、翔は室に戻って嘆じた。「李振はでたらめに丈夫ぶっているに過ぎない。朱氏と晋とは仇敵であり、私たちは共に謀を立て君に仕えた身だ。今、少主が国門で剣に伏して死んだというのに、たとえ新朝が罪を赦しても、どんな顔で建国門を入れようか」。そう言うと自ら首を吊って死んだ。数日後、その一族もまた誅殺された。
  • 以前、貞明年間、史臣李琪・張袞・郄殷象・馮錫嘉が詔を奉じて太祖実録三十巻を修めたが、叙述が拙く記述に漏れが多かったため、再び翔にその欠を補わせる詔が下った。翔は別に三十巻を編纂し『大梁編遺録』と名付け、実録とともに行われるようにした。
  • 翔の妻劉氏は父が藍田令であったが、広明の乱で劉は巣の将尚讓に捕らえられた。巣が敗れると讓は劉を伴い時溥に降ったが、讓が誅されると時溥は劉を妓室に入れた。太祖が徐州を平定した際に劉氏を得て寵愛したが、折しも翔が妻を失っていたため劉氏を彼に賜った。翔がしだいに貴顕になっても劉はなお太祖の寝所に出入りしており、翔の彼女への情や礼は薄くなった。劉は密室で翔を責め「あなたは私を卑しんでいるのですね、私がかつて賊に身を落としたことがあるからでしょうか。しかし成敗の観点から言えば、尚讓は黄巣の宰輔であり、時溥は国の忠臣です。あなたの家柄を論じて私を辱めるのはあまりに酷い。今よりお別れしましょう」と告げた。翔は謝ってこれを引き留めた。劉は太祖の勢いを恃み、太祖が四鎮を兼ねる頃には劉はすでに国夫人の号を得ており、車馬・衣服は驕奢を極め、侍女らも皆真珠翡翠の飾りを身につけていた。その下には爪牙(腹心の武人)や典謁(取次役)まで置き、書幣や聘使をもって藩鎮と交わりを結んでおり、近代の婦人でこれほど盛んな者は他になかった。権貴たちは皆これに取り入り、寵愛と信頼は翔に劣らぬほどで、当時の高位者たちもこれに倣ったため、風俗の乱れは甚だしかった。

李振

  • 字は興緒。唐の潞州節度使李抱真の曽孫である。祖父・父ともに郡守に至った。振は唐に仕え金吾将軍から台州刺史に改められたが、折しも盗賊が浙東に拠り赴任できなかったため西へ帰り、汴州を通った際に策略を太祖に説いた。太祖はこれを奇とし従事に招いた。太祖が鄆州を兼領すると天平軍節度副使に任じた。
  • 湖南の馬殷が朗州の雷満に迫られた際、振は命を奉じて馳せ赴き和解させ、殷・満はともに命に従った。光啓3年(887年)11月、太祖は振を長安へ入朝させ州の邸に宿らせたが、邸吏程巌が振に「劉中尉(劉季述)が甥の希貞を送って大事を計り、拝謁したいと申しています、お許しください」と告げた。希貞が来ると、巌はまず「主上(昭宗)が厳しく取り締まりを行っており、内官(宦官)は恐れております。左中尉(劉季述)は廃立を行おうとしており、私どもも協力してこれを内外で定めようとしています。あえてこの事をお伝えします」と述べた。振は希貞を顧みて「百年の奴が三年の主に仕える身で、国を乱し不義を働き、君を廃するのは不祥なこと、あえて聞くわけにはいかない。まして梁王(太祖)は百万の軍をもって天子を輔弼し、礼楽を尊び戴くことにさえ及ばぬことを恐れているのだ。よくよく考えられよ」と述べた。希貞は大いに落胆して去った。
  • 振が復命すると、劉季述らは果たして乱を起こし、程巌は諸道の邸吏を率いて帝を殿から引きずり下ろし幼主を立て、昭宗を太上皇と奉じた。振が陝州に至ると陝州ではすでに祝賀していた。護軍韓彝範がこの事を告げると、振は「懿皇(懿宗)が崩じた際、韓中尉(宦官)は年長の皇子を殺し幼主を立てて権力を利し、天下を乱した。今、将軍はまた同じことをしようとしているのか」と述べると、彝範は郎(唐の郎将か)文約の孫であったため、これより口を閉ざした。
  • 振が東へ帰る途中、太祖は邢州・洺州にあったが急いで汴州に戻り、大計はまだ決まらなかった。季述は養子希度を送って唐の社稷を太祖に譲ろうと申し出、また供奉官李奉本を送り副使支彦勲に上皇の詔を偽って持たせて至ったが、皆季述の一党であった。太祖はまだこれを迎える命を出していなかったが、振はさらに「竪刁・伊戻の乱は覇者の事業を助けたものです。今、宦官が天子を幽閉し辱めても討伐しないのでは、諸侯に号令することはできません」と述べた。当時、監軍使劉重楚は季述の兄であり、旧宰相張濬も河南緱氏に寓居していたが、太祖に「宦官と結べば事が易く成就し、望みも叶うでしょう」と説いた。振だけが頑として「正道を行えば大功を立てられます」と主張した。太祖は聡明にも突然色を正して「張公は私に勅使と結ぶよう勧めているが、それは自ら取り入って宰相の座を求めているのではないか」と述べた。
  • こうして策を定め、偽の使者李奉本・支彦勲を希度らとともに縛り上げ、振に京師へ命を奉じさせ宰相たちと正統回復を謀らせた。まもなく劉季述は誅され、昭宗は帝位に復した。太祖はこれを聞いて喜び、振を召してその手を執り「あなたの謀は私の本志であった、天もこれを知るだろう」と述べた。これより振はますます重んじられた。
  • 天祐2年(905年)春正月、太祖は振を召し「王師範が降伏してすでに一年が過ぎたが、なお旧藩にとどまっている。今、上奏して方面を移すことにする、あなたが私のためにこの意を伝えに馳せ行ってほしい」と告げた。振が青州に至ると師範はその日のうちに公府から出て、節度観察の二印と文簿・管鑰を振に授けた。師範はすでに代わりを受け入れながらも疑いと動揺が甚だしく、しばしば涙を流して一族の助命を求めた。振は道理を尽くして諭し「あなたは張繡の故事を思い出さないのか。漢末、繡はしばしば曹公と敵対したが、それを恨みに思われたことはなかった。袁紹が使者を送って繡を招こうとした際、賈詡は『袁家の父子は自ら相容れないのに、どうして天下の英士を主導できよう。曹公は天子を擁して諸侯に号令し、その志は大きく私怨を意に介さない。疑うべきではない』と述べた。今、梁王もどうして私怨で忠賢を害するでしょうか」と述べると、師範ははっと大いに悟った。翌日、一族を移し太祖は振を青州留後に表した。
  • まもなく振は召されて唐に戻った。昭宗の遷都以来、王室は衰微し朝廷の官職は員数を満たすだけとなっていたが、振は皆意のままに指図し傍若無人であった。取り入る者は非常な速さで昇進させ、私に憎む者は沈め捨てた。振が汴州から洛陽へ入るたびに、朝中で必ず貶謫・追放が起こったため、唐朝の人士は彼を「鴟梟(ふくろう)」と呼んだ。
  • 天祐年間、唐の宰相柳璨は太祖の意を汲んで大臣裴枢・陸扆ら七人を滑州白馬駅で讒言により殺させた。振はもと咸通・乾符年間に進士に応じたがたびたび落第しており、特にこれを憤っていたため、太祖に「彼らは自ら『清流』と称している、黄河に投げ入れて永遠に『濁流』とすべきだ」と述べ、太祖は笑ってこれに従った。
  • 太祖の受禅後、宣義軍節度副使・検校司徒から殿中監を授かり、戸部尚書に累進した。庶人友珪の簒立後は敬翔に代わり崇政院使となった。末帝の即位後は趙・張の二族が権を専らにし、振はその讒言に遭い、進言の多くが受け入れられなかった。振はしばしば病と称して政務を避けた。龍徳末年(923年頃)、私邸に閑居して一年近くになる頃、晋主が汴州に入ると振は謁見して自ら罪を認めた。郭崇韜は振を指して人に「李振は一代の奇才と評判だったが、今見ると平凡な人物に過ぎない」と述べた。折しも段凝らが梁の権要の臣を密告すると、振は敬翔らとともに同日に一族誅殺された。

史論

  • 史臣曰く、文蔚・貽矩はともに唐朝の旧臣でありながら、梁室の強引な禅譲に遭遇し、君命を奉じて使者となり、神器を掌りこれを渡すことになった。時勢に巡り会ったとはいえ、これも臣たる者の不幸であろう。むしろ相にならなかった方がよかったのではないか。杜曉は文雅の誉れがあり、張策は冲澹(清らかで淡白)な度量があり、いずれも高位に登って士林に恥じるところはなかった。敬翔・李振は初め覇業を助け、ついに帝業を成し遂げたが、国が滅びる際、一方は命を絶って節を明らかにし、もう一方は生き延びて命を惜しんだ。これを較べれば翔の方が優れていよう。振は初め「濁流」の言を発し、終には一族誅殺の禍を招いた。因果応報の理はまことに明らかである。