舊五代史卷十七 列傳七 成汭・杜洪・鍾傳・田頵・朱延壽・趙匡凝(匡明)・張佶・雷滿(彥恭)

本篇のうち対象とするのは趙匡凝とその弟匡明、および雷滿とその子彦恭。趙匡凝(蔡州の人)は父徳諲の跡を継ぎ襄州留後を称し、江山を占拠しながらも唐室への貢賦を絶やさず忠を尽くしたが、太祖の受禅要請を拒んで討伐され、金陵を経て淮南で没した。弟の匡明は荊南留後となったが太祖の進撃で蜀の王建のもとへ逃れた。雷滿は武陵の洞蛮出身の武陵の豪族で、朗州一帯を長く実効支配し貪欲残忍な逸話で知られる。その子彦恭は父の跡を継いだが、太祖の命を受けた馬殷・高季昌の攻撃を受け朗州を失い逃走した。

年表(5件)

成汭

  • 淮西の人。若い頃は任侠を気取り、酔って人を殺し仇家に追われたため髪を落として僧となり、姓を郭に冒した。長く逃亡生活を送り、後に貴顕となってから本姓に復した。唐の僖宗朝、蔡州の軍校として本郡の兵を率い荊南に駐屯したが、荊南の帥は彼の凶暴さを恐れ害そうとしたため、本軍を捨てて秭帰に逃れた。ある夜、巨蛇に体を巻かれ命を落としかけたが、「もし私に負う所があるなら、生死は命のままに」と祈ると蛇も体を解いて去った。
  • 後に帰州に拠って流民を招き集め兵を訓練し千余人を得ると、川を下って荊南を襲いその地を占拠した。朝廷はそのまま節鉞を授けた。当時、荊州は大盗の乱の後、住民はわずか十七家であったが、汭は疲弊した民を撫で慰め精励して治め、商業を通じ農業を勧め民を養うことに努めた。末年には戸数がおよそ一万に達した。
  • 汭は性格が豪放暴慢で万事を独断で決め、また自らを誇り弁舌で人を凌ぐことを好んだため、識者から深く軽んじられた。もと澧州・朗州の二州は荊南に属していたが、乾寧年間(894-898年)に土豪雷満に占拠された。汭は割いて朗州へ移属させるよう朝廷に奏請したが、宰相徐彦若はこれを取り上げず実行しなかったため、汭はこれを恨んだ。彦若が南海の鎮に赴く途中、江陵を通過した際、汭は表向き丁重に迎えたもののなお不満をあらわにし、酒宴で先の一件に話が及ぶと、彦若は「今、公の位は高く方面を統べ自ら桓公・文公になぞらえているが、雷満などは辺境の一草賊に過ぎない。それなのになぜ兵を出さず朝廷を恨むのか」と述べたため、汭は恥じて屈した。
  • 汭は官が検校太尉に累進し上谷郡王に封じられた。楊行密が兵を出して鄂州を包囲すると、汭は出師して鄂州を救おうとしたが、淮の賊はこれに乗じて火を放ちその艦を焼き、汭は江に身を投げて死んだ。天祐3年(906年)夏、太祖は汭が王事に殉じたことにより唐帝に上表し、荊門に汭のための廟を建てるよう請い、優れた詔をもって許された。

杜洪

  • 江夏の伶人。鍾傳は豫章の小校であった。唐の光啓年間(885-888年)、秦宗権の凶暴さが盛んになり江淮をたびたび乱すと、郡将たちは城を守りきれなかった。洪と傳はそれぞれ部校となり戦功をもって威を立て、廉使を追放して自ら留後を称し、朝廷はそのまま任命した。
  • 楊行密に攻められた際、洪と傳は互いに呼応し、いずれも太祖に救援を求め、太祖は朱友恭を送り淮の賊を武昌で大破し、両鎮はやや安定した。行密が勝ちに乗じて鄂州・洪州を急襲すると、洪は再び太祖に援軍を求め、太祖は荊南の成汭に荊州・襄州の水軍を率いて赴かせたが、夏口に至る前に汭は敗れて溺死した。淮の人々はついに鄂州を陥落させ、洪はその際に捕らえられ広陵の市で殺害された。唐の天復2年(902年)のことである。天祐3年夏、太祖は洪のためにその鎮に廟を建てるよう上表し、優れた詔で許された。太祖の即位後、太傅を追贈する詔が下された。
  • 以前、鍾傳が江西で没し、子の継之がその跡を継いだが、まもなく楊行密に敗れその地も淮南の勢力に帰した。

田頵

  • もと揚府の大校であった。朱延寿は出自が伝わらない。唐の天祐初年(904年)、楊行密が淮海に雄拠していた頃、頵は宣州節度使、延寿は寿州刺史であった。頵は行密が専横で跋扈していることから書を送って諷諫し「侯王が分限を守って天子に仕えるのは古の制度である。もしこれを越える者があれば、あたかも百川が海に朝せず狂ったように奔り猛烈に注いでも、広大に流れ広がった末は結局涸れた土地になるようなものだ。むしろ穏やかに流れに従う方が果てしなく続くというものだ。まして東南の要地である揚州は塵芥のように賤しい刀や布が豊富に積まれ金玉を蓄えている。あなたは常に天子への貢賦を厚くすべきだ」と述べ、頵は蓄えたすべての物資を単車に載せて行密のもとへ送ろうとしたが、行密は怒って「今、財賦を汴(梁)へ運べば、それは敵に資するだけだ」と言い、従わなかった。
  • 当時、延寿は寿春を守っていたが、頵の事情を知り密かに人を送って「あなたのなさろうとすることがあれば、私が先鞭をつけましょう」と告げると、頵はこれを聞いて自分の志と合致すると考え、進士の杜荀鶴を召してその意を詳しく述べさせ「唐朝を再興し盟主に立つのはこの機会にある」と語り、荀鶴に密議を伝えさせ間道を通って大梁へ至らせた。太祖は大いに喜び、直ちに宿州に軍を屯してその変事に応じようとした。
  • 数ヶ月せずして事が漏れると、行密はまず公牒をもって延寿を召し出し、続いて全軍で宣城の頵を攻めた。頵は兵力が乏しく城壁を捨てて逃走したが境を越えられず、行密の軍に捕らえられた。延寿は騎馬で急いで召命に応じたが、揚州まで一舎(三十里)に迫ったところで、行密は人を送って延寿を殺させた。その後、延寿の部曲で境外に逃れた者がこの経緯を詳しく語り、また延寿が出発しようとした際、その妻王氏が延寿を励まし「もし今兵権を得て大志を成せば吉、そうでなければ凶で、これは時勢によるもので我が家の力によるものではありません。ただ日ごとに一人の使いを寄越してください、一日でも使いが来なければ」と述べていたという。
  • 使いが来ないので王氏は「事はもう明らかです」と言い、家僕を配置し皆に武器を持たせて中門を閉ざしたが、捕吏の騎兵はすでに来て入れなかった。そこで家族を集め私財を積み上げ百の松明で州の役所ごと焼き払い、頭を垂れて「私は決して穢れなき身を仇の手にかけて辱められはしません」と告げて自ら火に身を投じて死んだ。

趙匡凝

  • 蔡州の人。父徳諲は初め秦宗権に仕えて列校となり、宗権の強暴な時期に襄州留後に表された。唐の光啓4年(888年)夏6月、徳諲は宗権が必ず敗れると見て漢南の地を挙げて唐朝に帰順し、太祖に使者を送り分を明らかにし力を合わせて宗権を討つことを誓った。当時、太祖は蔡州四面行営都統使であり、徳諲を副使に表し襄州節度使を領させた。蔡州平定の功により官爵を累加され淮安王に封じられた。
  • 匡凝は父の功により唐州刺史・七州馬歩軍都校となった。徳諲が没すると匡凝は自ら襄州留後を称し、朝廷はそのまま節鉞を授けた。鎮に在ること数年、威恵の評判があり、官は検校太尉兼中書令に累進した。匡凝は容貌が立派で身なりを整えることを好み、衣冠を正すたびに大きな鏡を前後に持たせて確認させ、対客の際に烏帽子に少しでも塵があれば侍妓に紅い払子で払わせた。人がその家の諱に触れれば往々にして刑罰を受けたほど、その厳格さはこのようであった。
  • 光化初年(898年頃)、匡凝は太祖が清口で敗れたことから密かに淮南の勢力に通じたため、太祖は氏叔琮に軍を率いて討たせた。まもなく沁州刺史趙璠が城壁を越えて降り、隋州刺史趙匡璘は陣中で捕らえられた。まもなく康懐英が鄧州を落とすと、匡凝は恐れて使者を送り和を乞い、太祖はこれを許した。以後、匡凝は太祖に付き従うようになった。
  • 成汭が鄂州で敗死すると、匡凝は弟匡明を荊南留後に表した。当時、唐室は衰微し諸道の常賦の多くが上供されなかったが、匡凝兄弟だけは江山を強く占拠しながらも帝室に忠を尽くし貢賦を絶やさなかった。太祖が受禅を計画する頃、匡凝兄弟がなお藩鎮を占めていたため、使者を送って先に意向を伝えさせたが、匡凝は使者に涙を流しながら「国恩を受けること深く、どうして時勢に従って他心を持てようか」と答えた。使者が復命すると、太祖は大いに怒った。
  • 天祐2年(905年)秋7月、楊師厚に討伐させ、8月には太祖自ら大軍を率いて南征し、あわせて匡凝の官爵を削るよう請うた。師厚が長江を渡ると、匡凝は数万の兵で迎え撃ったが大敗し、匡凝は自ら舟を焼いて単船で漢水を下り金陵へ逃れ、後に淮南で没した。
  • 初め匡凝は蔵書を好み、敗れた際に楊師厚は邸から数千巻を得て、これをすべて太祖に献じた。
  • 匡凝の弟匡明は字を賛堯といい、幼くして父の威光により一子として江寧府文学に出仕し、成長後は軍功により繍州・峡州の刺史を歴任した。成汭が敗れると兄匡凝は彼を荊南留後に表したが、赴任前に朗陵の兵が先に城を占拠していたため、匡明は兵を率いてこれを追放し渚宮に鎮した。天祐2年(905年)秋、太祖は襄州を平定すると楊師厚に勝ちに乗じて荊門へ向かわせ、匡明は恐れて一族を挙げて三峡を遡り蜀の王建のもとへ奔った。建は賓客の礼をもって遇し、建の即位後は大理卿・工部尚書に任じられ、長く蜀にあって没した。

張佶

  • 出自不明。唐の乾寧初年(894年頃)、劉建峰が湖南に拠っていたが邵州だけは服従せず、都将馬殷に討たせたが一年経っても平定できなかった。折しも建峰は部下に殺され軍が乱れ隣国の敵が迫った。当時、佶は行軍司馬であったが、潭州の人々が帥を推そうと相談し「張行軍こそふさわしい」と述べたため、佶はやむを得ず政務を執った。十日のうちに威声が大いに広がり敵も退いた。
  • 佶は将吏に「私の才能は馬公(馬殷)に及ばない、しかも朝廷の重んじる藩鎮はふさわしい者でなければ務まらない」と述べ、書簡を送って殷を召した。殷も疑うことなく命に応じて到着した。佶は拝謁の礼を受けた後、階上に登らせ殷に帥の座を譲った。佶は直ちに階を下りて衆を率いて拍手して祝賀し、自ら軍を率いて殷に代わって邵州を攻め落とすことを願い出て、再び行軍司馬として二十年近く務めた。殷は果たして大きな功を立て佶に深く感謝した。開平初年(907年頃)、殷は佶を朗州永順軍節度使に表し、官は検校太傅・同平章事に累進した。乾化元年(911年)夏4月、在官のまま没した。侍中を追贈する詔が下された。

雷滿

  • 武陵の洞蛮であった。初め朗州の小校であったが、唐の広明初年(880年頃)、王仙芝が江陵を焼き討ちした際、朝廷は高駢を節度使とし、駢は満を偏将に抜擢して蛮軍を統率させた。駢が淮南に転鎮すると、満も部曲としてこれに従い、その悍猛な性格と敏捷さで名を知られた。
  • 中和初年(881年頃)、満は勝手に部隊を率いて広陵から朗州へ逃げ帰り、長江沿いに横暴を極め、荊州の人々にとって大きな害悪となった。年に三、四度も郛(城郭)に兵を入れ、焼き討ちや略奪をして去った。唐朝は兵を休めることを優先し、澧州・朗州の節度使を彼に授けた。官は検校太傅・同平章事に累進した。満は貪欲で残忍な行いは人とは思えないほどであった。
  • 府署にかつて深い淵を掘り、その上に大きな亭を建て、隣国の使者が通るたびに必ずここへ招いて宴を開き、「これは水府だ。中に蛟龍がいて奇怪な姿を見せるが、私だけがそこを泳ぐことができる」と語った。酒が回ると客の前で宴席の宝器を淵に投げ込み、自ら衣を脱いで刺青を露わにし、水底に飛び込んで投げ込んだ宝器をすべて拾い集め水面で戯れて見せ、しばらくして上がると衣服を整えて座に戻った。その言動はこのように奇矯であった。
  • 満が没すると子の彦恭がその跡を継いだ。蛮蜑の狡猾さは父の風を受け継ぎ、南郡・武昌の間の集落を焼き払い舟を上下させ、ほとんど人がいなくなるほどであった。また淮南・蜀と連携し朝廷の命に背いた。太祖は湖南節度使馬殷・荊南節度使高季昌に精兵五千を訓練させ、将倪可福にこれを統率させて澧州を落とし潭州の兵と合流させた。
  • 以前、満は沅江を掘って堀とし、城壁を巡らせ長橋のかかる門に迫らせて容易に攻略できないようにしていた。殷は全力で包囲攻撃を続け一年に及ぶと、彦恭は食糧が尽き兵も敗れ、密使を送って淮南に救援を求めた。淮南の援軍が到着すると、高季昌は治津の馬頭岸で迎え撃ちこれを大破した。まもなく朗州が陥落し、彦恭は単船で逃走した。馬殷は弟彦雄と逆党七人を捕らえて枷をつけ京師に送り、皆汴橋のもとで斬られた。開平2年(908年)11月のことである。

史論

  • 史臣曰く、成汭・鍾傳・杜洪・田頵・朱延寿の輩は、いずれも時運が塞がった中で一方の要地に雄拠したが、天下を平定する功はなかったとはいえ、王事に励む節はあった。功は成らなかったとはいえ、その志は嘉すべきである。誠と明を較べれば、田頵・延寿の方が優れていよう。趙匡凝一門の兄弟は千里の江山を保ちながらも藩屏を守りきれず、その任に堪えられなかった。これはあの劉景升(劉表)の子の類であろうか。張佶には帥を譲る賢明さがあり、雷満は侯の任を辱めた。両者の優劣は明らかである。