舊五代史卷十三 梁書第十三 劉知俊

同州での叛乱から蜀への亡命

  • 劉知俊は徐州沛県の人。時溥の配下から太祖に降って軍校となり、勇猛で諸将に冠絶した。左開道指揮使に任じられ「劉開道」と呼ばれた。
  • 秦宗権討伐や徐州攻めに功を重ね、天復初年には同州節度使に任じられ、天祐三年(906年)冬には岐軍六万を美原で破るなど武功を重ね、大彭郡王に封じられた。
  • 威望の高まりを太祖に警戒される中、佑国軍節度使王重師が無罪のまま誅殺されると、知俊は不安を抱いて同州で叛き、李茂貞に款を通じた。雍・華への攻撃も試みたが、太祖の遣わした使者に「陛下に背いたのではなく死を恐れただけ」と釈明しつつも帰順しなかった。
  • 弟の知浣は潼関で劉鄩に捕らえられ殺された。知俊は一族を挙げて鳳翔の李茂貞のもとへ亡命し、検校太尉・中書令を与えられたが実際の藩鎮は与えられなかった。霊武攻めでは長城嶺で康懐英を破ったが、のち讒言により軍権を奪われ、李茂貞の甥李継崇の取りなしで秦州に移された。
  • 李継崇が秦州を蜀に降すと、知俊の妻子も成都に移され、知俊自身も百余人とともに夜間関を破って蜀に投じ、王建に厚遇されて武信軍節度使を偽授された。岐攻めに従軍したが失敗し、のちに王建の警戒を受け、天漢元年(917年)冬、成都で処刑された。
  • 族子の劉嗣彬は知俊の叛乱に加担せず軍校であり続けたが、のちに晋に投じて厚遇された。しかし龍徳三年(923年)、王彦章に従った中都の戦いで晋軍の捕虜となり、晋王に見咎められて誅された。