舊五代史卷七 梁書第七 太祖紀七 太祖

乾化二年(912年)、太祖晩年の巻。北境への出兵や日常の政務記事に続き、病篤くなった太祖が李存勗(晋)の伸張を憂えて嘆いたのち、寵愛した養子博王友文への譲位を疑った次子郢王友珪に弑逆される最期が記される。享年六十一。

年表(4件)

乾化二年(912年)

  • 正月、上元の夜に諸市・坊市で彩灯を点すことを許し金吾の夜禁を用いないとの宣が出た(近年は都下に兵が多く集まり坊市の点灯を許していなかった)。甲申、雪が久しく降らないことを憂え丞相・三省官に祈禱を命じ、内外文武百官と在野の士にも封事を上げ得失を語ることを許す詔を発した。丁審衢を陳州に任じたところ審衢は鞍馬・金帛を厚く献じて謝したが、帝は民を搾取することを慮りその献上を止めさせた。保義節度使王檀を琅琊郡王に封じた。定州の進奉官崔騰以下十四人の抑留者を釈放した(崔騰は唐の戸部侍郎崔潔の子で、広明の喪乱で北方に寓居し定州節度使王処存に召され、去年貢献に来て未だ帰れないうちに定州が挙兵し拘留されていたが、帝は使いの者が境を出ていることを念い特に釈放し帰らせた)。丙戌、孟春の太廟薦享に丞相杜曉を摂祭させた。丙申夕、熒惑(火星)が房宿第二星を犯した。
  • 二月庚戌、中和節に崇勲殿で丞相・大学士・河南尹を召し宴を賜った(この月、故魏博節度使羅弘信を趙王に追封した)。癸丑、夏秋の長雨を予期し百姓に備えを告諭する勅。庚申、宣威殿で丞相以下文武官を終日宴した。壬戌、帝は北境巡按のため中外を戒厳させ、河南尹守中書令判六軍事張宗奭を大内留守とし、扈駕すべき文武官三十八人を選定した。甲子、洛陽を発ち河陽・温県・武陟(懐州刺史段明遠が境上に出迎え)・獲嘉・衛州新郷・淇門・黎陽・内黄・昌楽県・永済県(青州節度使賀徳倫が兵を率い歴亭軍前に赴くと奏した)・貝州と巡幸を続けた。
  • 三月庚辰朔、棗強県の西原に至り、丙戌、鎮定諸軍招討使楊師厚が棗強県を攻略したと奏したため、車駕は即日南へ引き返し貝州に戻った。庚寅、楊師厚・副招討李周彜らが詔に応じ来朝、辛卯、丞相・翰林六学士・文武従官・都招討使・諸軍統指揮使らを行殿で賜食し、甲午・乙未、貝州東闉で閲武した。棗強攻略の功で将校杜暉ら十一人を超加検校官に、衙官宋彦ら二十五人を超授軍職とした。丙午、済源県に至り、亢陽(旱魃)の兆しに魏州へ祈禱を命じる詔、さらに宰臣にも魏州の霊祠で祈禱させる詔を重ねた。
  • 四月己酉、魏州金波亭に幸し宰臣・文武官・六学士を宴した。甲寅夕、月が心大星を掩い、丙辰、星変を修禳するため両京・宋州・魏州で五月まで屠殺を禁じ仏寺で道場を開かせる勅。己未、黎陽県に次し、東都留守官吏の起居を受けた。己巳、東都に至り、博王友文が新築の食殿の完成と内宴の準備(銭三千貫・銀器千五百両)を進めた。辛未、食殿で宴し丞相・文武従官が侍したが、帝は九曲池で舟に乗った際に舟が傾き池に落ち、宮女・侍官に助けられ岸に上がり久しく驚悸した。開封尹博王友文を特進検校太保兼開封尹・建昌宮使・東都留守とする制が加えられた。戊寅、東京を発ち中牟県に次した。
  • 五月己卯朔、丞相以下文武従官が行殿で起居し、親王・諸道藩帥も表を奉じた。庚辰、鄭州から滎陽に至ると河南尹魏王張宗奭が塵を望んで出迎え、河陽留後段明遠らも次々に迎えた。汜水県に次し、魏王宗奭を召して食を賜った。壬午、汜水に駐蹕、宰臣・河南尹・六学士が内殿で起居、建昌宮事を宰臣于兢に委ねた。癸未、汜水を発ち任村頓・孝義宮を経て偃師に至り、甲申、都に着き文武臣が東郊で迎奉した。渤海が使臣を遣わし貢を献じた。宰臣薛貽矩は病で扈従できず、まもなく薨じ、帝は震悼し洛苑使曹守璫を弔祭に遣わし六・七・八日の朝参を輟めた。丁亥、彗星の出現により両京の禁囚のうち大辟以下を一等減じ三日以内に処理を報告させる詔。乳哺の頃であることを慮り両京・諸州府に夏季の屠殺・採捕を禁じる詔、暴露の骸骨の埋葬・鰥寡孤独の賑恤・疫病者への医薬給付を命じる詔も相次いで出た。辛卯、亢陽が甚だしく農事が傷んだため宰臣于兢を中嶽に、杜曉を西嶽に遣わし精しく祈禱させ、近京の霊廟・五帝壇・風師雨師・九宮貴神にもそれぞれ祈らせる詔を発した。
  • 友珪は太祖を伊闕県に葬り、宣陵と号した。