舊五代史卷五 梁書第五 太祖紀五 太祖
開平三年の続きと開平四年(909-910年)。劉知俊の乱の後始末と邠寧・夏州方面の攻防、魏博節度使羅紹威の死去などが記される一時期。
年表(7件)
- 開平三年(続き)909年襄州の乱(李洪)平定を祝う上表を受ける
- 開平三年(続き)909年冬至に南郊で告謝の礼を行う
- 開平三年(続き)909年劉知俊が邠・岐・秦・涇の軍を率い霊州(夏州)に迫る
- 開平四年910年魏博節度使羅紹威が薨去
- 開平四年910年劉知俊が夏州を攻めるも節度使李仁福が固守し撃退される
- 開平四年910年諸道に賢者の推薦を求める詔を発する
- 開平四年910年陳・許・汝・蔡・潁で蝗害が起こるも野禽に食い尽くされ豊作となる
開平三年(909年)(続き)
- 九月癸巳朔、崇勲殿で群臣・文武百官を宴し、張宗奭・楊師厚に白綾各三百匹と銀鞍轡馬を賜った。丁酉、崇政院に幸して内臣を宴し院使敬翔・直学士李班らに繒綵を賜った。門下侍郎平章事薛貽矩に建昌宮事・延資庫使を判じさせ、使臣の復命が遅滞する弊を戒める制を発した。庚子、殿直王唐福が襄城から急ぎ、大軍が勝ち逆将李洪が帰降したことを報じ、宰臣百官が上表して称賀した。壬寅、開封府虞候李継業が襄州都指揮使陳暉の上奏を齎し、五日に逆党千人を殺戮し都指揮使傅霸以下五百人を捕らえ襄州の民を帰業させたことを報じた。癸卯、帝は文明殿で襄漢回復の慶賀を受けた。辛亥、侍中韓建は守太保に、左僕射同平章事楊涉は本官守に罷め、太常卿趙光逢を中書侍郎平章事、翰林学士奉旨工部侍郎知制誥杜曉を尚書戸部侍郎平章事とした。郊祀の日を秋冬の雨を避けて改めて選ぶ詔が出、礼儀使は十一月二日冬至を親告の礼にあてることを奏し許された。
- 十月癸未、大明節に文明殿で設斎、諸道節度使・刺史・内外諸司使が進献した。十一月癸巳朔、帝は内殿で斎み朝を視ず、甲午、冬至の五更、文明殿で宰臣以下の起居を受け、五鳳楼から南郊へ赴き告謝の礼を行った。司天台は冬至の夜半から祥風が吹き帝座が澄明で暁には黄雲が日を捧げたと奏した。丙申、上東門外で狩り、戊戌、天への畏敬と自省を述べる詔を発した(旱疫・驕将の背義などを憂い、南征西討の成功を天佑と天命の帰するところとし、下民への恩沢拡大を誓う内容)。己亥、羅周翰を天雄軍節度副使知府事とした(鄴王羅紹威の請いによる)。辛丑、穀水に幸した。戊午、文明殿で太傅張宗奭・太保韓建の冊を受け、太廟に謁し尚書省に赴き、榆林坡で兵を閲した。乾文院を文思院、行殿を興宅殿、毬場を興安毬場、弓箭庫殿を宣武殿と改めた。霊州から鳳翔の賊将劉知俊が邠・岐・秦・涇の軍を率い州城に迫っていると奏があり、帝は陝州の康懐英・華州の寇彦卿に邠寧を攻めさせ朔方の冦を緩めさせた。十二月乙丑、臘日に甘泉駅で狩りをし、蒲州(王家発祥の地)で王重榮の旧功を偲び褒奨・封崇する詔を下した。国子監が文宣王廟の創建を奏し、在朝・天下の現任官僚の俸銭から毎貫毎月十五文を土木費に充てることが許された。福建節度使王審知が捨銭で建てた寺に「大梁万歳之寺」の額を賜い僧四十九人の度牒を許した。故牢城使王仁嗣(司空)・故同州押衙史肇(右僕射)ら数名を追贈した(劉知俊の叛に際し正義を守り酷禍に遭ったため)。劉守光が薊州西で兄劉守文と戦い生擒したと上言した。
開平四年(910年)
- 正月壬辰朔、朝元殿で百官の祝賀を礼楽をもって受けた。使臣の遅滞を戒める勅、乙未、師子門から榆林坡下で閲兵、壬寅、保寧毬場に幸し宰臣・文武百官を宴し物を賜った。二月乙丑、甘水亭に幸し軍事を閲兵、潞州から投降した軍使張行恭に錦服・銀帯を賜った。戊辰、金鑾殿で宴し、甲戌、春に事なきをもって宰臣・勲戚をしばしば河南府池亭で宴した。辛巳、楊師厚が陝の鎮に赴任し、寒食・清明にかけ諸道節度使・郡守・勲臣が競って春服・鞍轡馬・金銀器・羅錦を献じたものは千万を数えた。丁丑、宣威殿で宰臣・文武四品以上を宴した。己丑、穀水で麦を観た。三月、崇政院・天驥院・甘水亭でそれぞれ勲臣・侍臣・宰臣を宴し、宣威殿で宴を重ねた。
- 四月壬戌、致仕の刑部尚書張策ら二十二人の三品四品常参官の先祖に一等追贈する詔。乙丑、崇政院で宴し、内妓に鼓を打たせ曲を弄ばせた(帝は藩鎮時代から即位後も逸楽を戒め堂上の歌舞を用いなかった)。丁卯、宋州節度使衡王友諒が瑞麦(一茎三穂)を進めたが、帝は「豊年こそ上瑞であるのに、宋州は大水害だったはずだ」と詰責した。丙戌、建春門に幸し新楼を観、七里屯で麦を観た際、鎮将が県令の上位に位置していることを問い「令長は民を治める者、鎮使は盗賊を捕らえるだけの役。鎮将の多くは邑の民であり、どうして民の父母たる県令の上に立てようか」と改める勅を下した。葉県鎮遏使馮徳武が蔡州西平県界で山賊を殺し首領張濆ら七人を捕らえて献じた。鎮海軍節度使銭鏐が湖州で高澧を大破し湖州を平定した(澧が州を挙げて淮南に叛いたため討伐を命じたもの)。
- 五月己丑朔、長雨がやまず、壬辰、文明殿で宰臣に祠廟へ祈禱させ、内外の献馬三千蹄余りが集まった。甲辰、贋の犀玉・真珠腰帯・璧珥などの製造・使用を一切禁じる詔(すでにある物は所在の州府に送納し焼却させる)。魏博節度使守太師兼中書令鄴王羅紹威が薨じ、帝は「天は私に海内を一つにさせず、なぜこれほど早く忠臣を奪うのか」と哀慟し尚書令を贈った。六月己未朔、軍鎮に土木を興させない詔。七月壬子、甘水亭で宰臣・河南尹・翰林学士・両街使を宴し、丙辰、宣威殿で群臣を宴した。劉知俊が夏州(定難節度使李仁福)に迫った。宣化軍留後李思安を東北面行営都指揮使、陝州節度使楊師厚を西路行営招討使とした。陳・許・汝・蔡・潁の五州境で蝗(蝝)の害が発生したが、まもなく許州から野禽が飛来してこれを食い尽くしたと上言があり、この年は大豊作となった。
- 八月、車駕は西征し陝府に着いた。旱を憂え宰臣・従官に祈禱させると当日雨が降り、翌日止んだので帝は大いに悦んだ。辛未、老人星が現れ、本府節度使楊師厚らを行宮で宴し帛千匹を賜い西路行営招討使とした。丙子、龜茲楽を用いて軍使以下を宴した。九月丁亥朔、宰臣于兢を西都に遣わし圜丘で昊天上帝を祀らせた。甲午、西京に至り「即位以来三年、廟謀に力を尽くしてきたが、朝廷にも軍旅にも人材登用の余地があろう。諸道の都督・観察・防禦使らは巷閭の賢者・耕作者の中の識者を精しく捜し推薦せよ」との求賢の詔を発した。辛丑、久しい雨を憂え宰臣薛貽矩を定鼎門に、趙光逢を嵩岳に遣わした。魏博管内の刺史の権限を強め督郵に専断させず刺史が専達できるよう河南諸州の例に倣わせる勅。壬寅、王師が獲た馬の献上を止めさせる令を出した(奮撃の功を賞するためであった)。
- 乙巳、王師が夏州で蕃冦を破った。劉知俊が沙陀の振武賊帥周徳威・涇原賊帥李継鸞を誘い歩騎五万を合わせ夏台を襲おうとしたが、節度使李仁福の兵力が乏しく急を告げていた。あらかじめ供奉官張漢玫・国礼使杜廷隠が夏州・石堡寨で賊の来襲を聞き、防卒三百人で州に馳せ入り、外兵が包囲する中、指揮使張初・李君用らと共に李仁福とともに一月余り昼夜固守し、鄜延の援軍が至って大軍で撃退、河東・邠岐の賊は分かれて逃走し夏州の包囲は解けた。丙午、劉知俊を捕らえ首を献じた者への懸賞(生擒で銭千万・節度使、首級で百万・刺史など)を定める詔を発した。乙卯、宣威殿で群臣を宴した。