舊唐書卷二百下 列傳第一百五十下 秦宗權

許州の出身で郡牙将から蔡州節度使となった秦宗権(?–889年)。当初は黄巣に対する勤王の兵を起こしたが、のちに合流して盗賊化し、巣の滅亡後は自ら帝号を僭称して各地を荒らした。最後は部下に裏切られて捕らえられ、京師で処刑された。

年表(3件)
  • 広明元年880年蔡州の兵を集めて城を守り、のち勤王の兵を起こして蔡州牧・節度使号を得る
  • 中和3年883年黄巣の関東逃走を迎撃するも失敗し、むしろ合流して盗賊化する
  • 龍紀元年889年2月、部下申叢に捕らえられ汴州へ送られ、のち京師で妻とともに斬られる

秦宗權

  • 秦宗権は許州の人、郡牙将。広明元年(880年)巣の淮北渡河、忠武軍の反乱(薛能追放)を経て、朝廷は周岌を許帥に任命。宗権は蔡州の兵を集結させ府主の死・巣賊の圧迫を防ぐため城を守った。周岌の下で監軍楊復光と共に勤王の兵を起こし、蔡州牧・節度使号を得た。
  • 中和3年(883年)巣が関東へ逃走した際、宗権は迎撃に失敗しむしろ合流して盗賊化。巣の滅亡後は自ら帝号を僭称し官吏を独自に任命、部将秦彦(江淮を乱す)・秦賢(江南)・秦誥(襄陽陥落)・孫儒(孟・洛・陝・虢から長安へ)・張眰(汝・鄭)・盧塘(汴州攻撃)を各地に放ち、その残虐は関中から青・斉、江淮、衛滑にまで及び人煙が絶えるほどであった。食糧欠乏から人肉を塩漬けにして兵糧とした(賊軍の随行に用いた)。趙犨兄弟の陳州、朱温の汴州のみが持ちこたえ、汴州は兗・鄆と結んで賊軍をたびたび破り、賊勢は衰えていった。
  • 龍紀元年(889年)2月、部下の申叢が宗権を捕らえ足を折り汴州へ送った。朱温は礼を尽くしつつ「かつて共に勤王していればこうならなかった」と語り、宗権は「私が死ななければ公はどうして興ったか、天が私を公に授けたのだ」と悪びれず答えたと記す。檻に入れられ京師に送られ、昭宗が延喜楼で受俘、京兆尹孫揆が市中を引き回した。宗権は「私が謀反人ではなく、ただ忠を尽くせなかっただけだ」と語ったが人々は嘲笑した。妻趙氏と共に独柳の下で斬られた。

史論

  • 史臣曰く、唐の建国以来300年20帝の間、竊邑叛君の輩は多かったが、いずれも兵を興したそばから誅滅された。その中でも激しい大乱が3度あった――安禄山・朱泚・黄巣である。国家を危うくし君親を害するその罪は極刑をもってしても足りず、多言を要さないが、乱の起こる背景には必ず理由があり、天時よりもむしろ人事に帰すべきである。
  • 禄山は巫者の子・互市の牙郎に過ぎなかったが辺功により異例の寵用を受け、兵馬牧監の権を独占するに至った。玄宗の独尊への慢心と楊国忠との確執から義を軽んじ、闕への進軍を名分として非望を遂げようとした――これが乱の起こった所以である。
  • 朱泚は漁陽の出、篡奪の話を聞き慣れて育ちながら本心は忠貞にあったが、弟の反乱で身を京師に留められ不満を募らせ、幽州の帥がしばしば乱によって得られてきた前例から、自らも天命が転がり込むと考えた。
  • 黄巣は卑賎の出で王仙芝・尚譲の跡を追ったに過ぎず志は略奪にあり遠大な謀はなかったが、たまたま江表から関中に長駆し、天子の車駕が蒙塵するのを見て天命が自分にあると錯覚した。
  • もし玄宗が張九齢の諫言を用い威令を正しく行っていれば、禄山を要職に就けず民は塗炭を免れ天子も蜀へ逃れずに済んだであろう。徳宗が瑕疵を包み隠して武を好まず、李承の言に従い李希烈討伐を委ねなければ、あるいは早く朱泚を退けていれば、涇原の乱兵も奉天の危急もなかったであろう。僖宗が民の困窮を知り鄭畋の赦免論に従っていれば、黄巣は反乱を起こせず車駕も蒙塵しなかったであろう。わずかな差が千里の隔たりを生む――蛇に噛まれても腕を切らぬ油断、蟻の穴が堤を崩す道理は、後の帝王への戒めである。
  • 史朝義・秦宗権も乱離に乗じ暴虐を極め郡邑を荒らし帝位を僭称したが、いずれも滅亡した。これもまた乱世の余殃である。
  • 賛に曰く、天地否閉(塞がり滞る)し反逆が常を乱す。禄山は闕を犯し、朱泚は皇帝を僭称した。黄巣が跳梁し群小が跋扈した。その所以を尋ねれば、備えを怠った慢心にこそある。