舊唐書卷二百上 列傳第一百五十上 安祿山
安禄山(?-757年)は営州柳城の雑種胡人。張守珪の配下から出世し平盧・范陽・河東三節度を兼ねる大軍閥となった。天宝十四載(755年)に挙兵し「安史の乱」を起こして国号「燕」を称したが、失明・暴虐化ののち子の慶緒に殺害された。
出自と生い立ち
- 安禄山は営州柳城の雑種胡人で、本来姓氏を持たず軋犖山(突厥語で「闘戦」の意)と名乗った。母阿史徳氏は突厥の巫師。幼くして父を失い、母の再婚相手である将軍安波至の兄延偃に養われた。開元初年、将軍安道買の子らと共に突厥から脱出、道買の次男安貞節(嵐州別駕)に引き取られた。10余歳の頃に共に脱出した兄・延偃に感謝し義兄弟の契りを結び、安の姓を冒した。成長して6蕃語に通じ互市の仲買(互市牙郎)となった。
張守珪への仕官と出世
- 開元20年(732年)、幽州節度張守珪の下で羊を盗んだ罪により棒殺されかけたが、「両蕃討滅を望まぬのか、なぜ祿山を打ち殺すのか」と叫び、その肥満体と弁舌に免じて赦された。同郷の史思明と共に捉生(斥候)として戦功を挙げ偏将に抜擢、養子とされた。28年(740年)平盧兵馬使、賄賂を用いて評判を高め営州都督・平盧軍使に。
- 天宝元年(742年)平盧節度使兼中丞。3載(744年)范陽節度使も兼任、採訪使張利貞・黜陟使席建侯・裴寛・李林甫らが次々と好評を伝え玄宗の信頼は揺るがぬものとなった。楊貴妃の養子となることを願い出て「蕃人は母を先にし父を後にする」と釈明し玄宗を喜ばせ、楊銛以下と義兄弟の契りを結んだ。
- 6載(747年)御史大夫加授。李林甫には終始へりくだり、その洞察力を神の如く畏れた(劉駱谷を介した情報収集の逸話)。晩年は肥満甚だしく(体重330斤、両脇を支えられて歩行)、それでも玄宗の前では胡旋舞を疾風のように舞った。10載(751年)入朝し河東節度も兼ねた。
- 子11人、長子慶宗(太僕卿、郡主の婿)、少子慶緒(鴻臚卿)。
謀反の準備と契丹遠征の失敗
- 密かに謀反を企て范陽北に雄武城を築き武器・穀物を蓄え、馬1万5千頭・牛羊多数を擁した。三道節度を兼ね奏請はすべて許され、張通儒・李庭堅ら文官と高尚(掌書記)・劉駱谷(西京の耳目)・安守忠・李帰仁ら多数の武将を配下に集めた。契丹を10余度騙し討ち(宴で毒を盛り生き埋め)にした。
- 天宝11載(752年)8月、5、6万を号して15万と称し契丹討伐に出陣。長雨で弓矢が使えなくなり奚の挟撃を受け大敗、自らも負傷し辛くも平盧城へ逃げ帰った。
反乱決起
- 楊国忠がたびたび謀反を訴えたが、玄宗の使者輔璆琳は賄賂を受け忠誠を証言。13載(754年)正月、華清宮で涕泣し「楊国忠に殺されようとしている」と訴え、玄宗はますます厚遇し左僕射を授けた。閑廐・隴右群牧使も兼ね馬の私的選別を進め、范陽へ急ぎ帰任。14載(755年)玄宗の召喚を仮病で拒み、婚礼の招請も辞退した。
- 11月、范陽で挙兵、「楊国忠討伐の勅命を奉ずる」と偽称。高尚・厳荘を謀主、孫孝哲・高邈・何千年を腹心とした。太平に慣れた朝廷は震撼し、高仙芝・封常清を将として応戦させたが、統制の取れた叛乱軍は連戦連勝した。
- 12月、陳留郡(河南節度張介然戦死)を陥落。慶緒は処刑された兄慶宗の首を見て泣き、祿山も激怒し降兵6、7千を虐殺。滎陽・洛陽(李悽・盧奕・蔣清殺害)を陥落、封常清・高仙芝は潼関まで敗走(陝郡太守竇庭芝逃亡、崔乾祐が陝郡を守備、臨汝太守韋斌降伏)。
偽燕国の成立と潼関失陥
- 至徳元載(756年)正月、国号「燕」・年号「聖武」を僭称。5月、南陽節度魯炅の10万が葉県で壊滅、6月李光弼・郭子儀は常山郡東の嘉山で大勝、河北諸郡が帰順するも、哥舒翰8万が霊宝西で崔乾祐に大敗、潼関陥落。玄宗は蜀へ、太子は霊武で挙兵。祿山は張通儒を西京留守、田乾真を京兆尹、安守忠を苑中駐屯とした。11月、阿史那承慶が潁川を屠った。
暗殺と慶緒の即位
- 肥満と疽病により晩年は失明、至徳2載(757年)正月、朝賀の途中に病重で退出。焦燥から厳荘を鞭打つなど暴虐化し、厳荘は謀反を決意、慶緒を戸外に立たせ豎(宦官)李猪児に命じ祿山を刺殺させた。祿山は暗闇の中で「これは我が家の賊だ」と叫んだのみで絶命、遺体は寝台下に密かに埋められ喪も発せられず、厳荘は「祿山は晋王慶緒に位を譲り太上皇となった」と偽宣した。慶緒は放埒に酒を飲み厳荘を「兄」と呼んで政務を委ねた。
- 李猪児は元は契丹の出身で幼くして祿山に去勢され宦官となり最も寵愛されていたが、最後に祿山を刺殺した張本人となった(祿山の着替えを介助する逸話も記す)。
- 慶緒は祿山の第二子、母康氏。騎射に優れ祿山に偏愛された。20歳前に鴻臚卿・広陽太守。厳荘・高尚が擁立したが本人は懦弱で言葉に乱れがあり、人前に出されなかった。厳荘は御史大夫・馮翊郡王として実権を握り軍を厚遇して掌握した。
唐軍反攻と鄴城の陥落
- 至徳2載2月、粛宗は鳳翔に移り祿山死去を知ると僕固懐恩を回紇に派遣し婚姻・援兵を結んだ。同月郭子儀が河東郡奪還。8月回紇3千騎到着。9月広平王が西京を回復、安守忠敗走。
- 10月尹子奇が睢陽郡を陥し張巡・姚摐を殺害。王師は陝郡まで進み、郭子儀らが陝西曲沃・新店で大勝し10余万を斬首、厳荘は慶緒に急報し慶緒は鄴郡へ逃げた。従うのは疲卒1300のみ。厳荘は河内から帰順。乾元元年(758年)能元皓・王暕・宇文寛らが帰順したが、蔡希德・安太清に再び陥とされ河北諸軍の離反は繰り返された。慶緒は政務を顧みず享楽に耽り、蔡希德は張通儒に讒言され縊殺、軍心は離れた。
- 9月、粛宗は郭子儀ら9節度20万(軍容使魚朝恩)で鄴城を包囲。史思明の援軍先鋒李帰仁を退けつつ、郭子儀は水攻めで包囲を固めた。慶緒は史思明に救援と禅譲を約したが、鄴城が水攻めで困窮する中(米一斗7万銭、鼠一頭数千銭、馬糞を洗って食する惨状)、思明の来援後も内部対立が続いた末、慶緒はわずかな供を連れ思明に投降。思明は慶緒とその四弟、高尚、孫孝哲、崔乾祐をすべて絞殺した。祿山父子の僭逆は3年で滅んだ(術士桑道茂の「3月6日に西の軍は必ず退く」との予言が的中したという逸話を付す)。