舊唐書卷二百 李華・蕭穎士・陸據・崔顥・王昌齡・孟浩然・元德秀・王維・李白・杜甫・吳通玄・王仲舒・崔咸・唐次・劉蕡・李商隱・溫庭筠・薛逢・李拯・李巨川・司空圖

李華

  • 李華、字は遐叔、趙郡の人。開元二十三年、進士に及第。天寶中、朝廷に入り監察御史、侍御史、礼部・吏部の員外郎を歴任した。文に巧みで蘭陵の蕭穎士と親しかった。進士時代に一万余言の《含元殿賦》を著すと穎士が「景福殿の上、霊光殿の下に立つ名文」と賞賛した。華の文体は温麗だが宏傑の気に乏しく、穎士の詞鋒は俊発であった。華は自作が穎士に勝ると自負し、穎士の評を偽りかと疑い、古戦場を祭る文を書いて古物のように燻して寺の仏書棚に隠し、共に見つけて意見を求めると「まずまずだ」と穎士に評され、「当代の文人でこれに及ぶ者があるか」と問うと「君ならもう少し思案すればここまで書ける」と返され、華は愕然とした。華は亀卜(占い)を廃すべきとの論を著し、識者はその説を認めた。
  • 安祿山が長安を陥した際、玄宗の逃避行に及ばず賊に囚われ偽の鳳閣舍人に任じられた。都奪還後、賊に仕えた者を等級づけて処罰する中で軽減されつつも官を廢され家で卒した。かつて魯山令元德秀の墓碑を著し顏真卿が書、李陽冰が篆額を書いたためのちに人々が争って模写し「四絶碑」と称された。文集十卷が世に行われた。

蕭穎士

  • 蕭穎士、字は茂挺、李華と同年に進士に及第した。開元中の太平の世、席豫・張垍・韋述らの名士とすべて交わり縉紳に称賛された。李林甫がその名声を聞き登用しようと召見した際、穎士は広陵に寓居中で母の喪にあり、麻服のまま京師に赴き政事省で林甫に謁見したが、林甫は喪服姿を見て不快がりすぐに退けた。穎士は激怒し《伐櫻桃賦》を著し林甫を「無用の枝を抜擢し本家の陰に自らを庇い、林中を乱して分不相応の地位を占め、正味でないものを羹に混ぜる」と諷刺した。その狂率不遜な性格はこの類であったが聡警は絶倫であった。李華・陸據と洛南龍門に遊び道端の古碑を読んだ際、穎士は一読で暗誦し、華は二読、據は三読を要し、議者は三人の才の優劣もこの通りと評した。新羅の使者も入朝の折「わが国民は蕭夫子を師と仰ぎたい」と語るほど華夷に名が轟いたが、放縦傲慢と偏狭のうちに困窮して卒した。

附 李翰

  • 華の一族の翰も進士で知られた。天寶中、陽翟に寓居し精密で苦渋な思索の文を作った。県令皇甫曾に音楽を求め、思考が涸れると楽を奏し霊感が湧くと文を書いた。安祿山の乱では友人張巡に従い宋州にあり、巡が州人を率いて籠城し食糧・矢が尽き陥落するまで守った。当時「巡は賊に降った」との悪評があったのを、翰は張巡・姚誾らの守城の事跡を《張巡姚誾等傳》二卷に著し粛宗に献じ、その忠義を明らかにし士に称賛された。上元中、衛縣尉、のち侍御史として入朝した。

陸據

  • 陸據は周上庸公陸騰の六代孫。幼くして父を失い文章俊逸で言論縦横であった。30余歳で初めて京師に遊学し進士に及第、公卿がその文を重んじた。従事に招かれ官は司勲員外郎に至り天寶十三載に卒した。開元・天寶間、汴州の崔顥、京兆の王昌齡・高適、襄陽の孟浩然らが文士として知られたが名位は振るわず、高適だけが官位に達し別に伝がある。

崔顥

  • 崔顥は進士に及第。俊才があったが士行に欠け博打と酒を好んだ。京師に遊学の折、容貌のよい妻を娶っては気に入らぬとすぐ離縁することを繰り返した。司勲員外郎に累遷し天寶十三年に卒した。

王昌齡

  • 王昌齡は進士に及第し秘書省校書郎に補された。さらに博學宏詞科にも登り汜水縣尉に転じたが素行に無頓着で幾度も貶斥され卒した。文は緒微だが思いが清らかで文集五卷がある。

孟浩然

  • 孟浩然は鹿門山に隠棲し詩をもって自ら慰めた。40歳で京師に遊学し進士に応じたが不合格で帰郷した。襄陽出身の張九齡が荊州を鎮した際に従事として招かれ唱和したが、不遇のまま卒した。

元德秀

  • 元德秀は河南の人、字は紫芝。開元二十一年、進士に及第。純朴な性で装飾を好まず古の道に倣った。父は延州刺史。
  • 幼くして父を失い貧しい中、母に孝を尽くした。開元中、郷貢に赴く際も親と離れることを忍びず毎回自ら板輿を負って母を伴い長安に赴いた。及第後に母が亡くなると墓側に廬し塩酪も敷物もない粗末な暮らしをし、血を刺して像を描き仏経を写した。長らく孤児の身で仕官を求められ邢州南和尉に任じられ、恵政で黜陟使に上聞され龍武録事参軍に召された。
  • 早く両親を失い喪に服し続けたため親の存命中に妻を娶れず、以後も独身を通した。族人に後嗣が絶えることを諌められると「兄に子がいるので先祖の祀りは継がれる」と答え、兄の子の婚姻を自ら世話した。家貧しく礼を整えられぬ中、魯山令を求めた。落馬で足を痛め趨拝できなかったが汝州郡守は客礼で遇した。県内で盗みを働いた者が「猛獣を退治して罪を贖いたい」と申し出ると許し、吏に「約束を違えるわけにいかぬ、責任は私が負う」と言って枷を外して放ち、翌日猛獣を退治して戻った。この誠信で人を化す例は多かった。
  • 任期満了後、陸渾に遊び佳山水を見て隠棲の志を抱き山あいに廬を結んだ。飢饉の年は炊事もできぬほど貧しかったが琴を弾き書を読み泰然としていた。好事家が酒肴を持って訪ねると賢愚を問わず共に飲み俗世を超えて楽しんだ。琴と酒の余暇に文詠を作り率直な言葉で飾らず、《季子聽樂論》《蹇士賦》は高人に称された。
  • 天寶十三年、59歳で卒し門人が「文行先生」と諡した。士大夫はその行いを敬い名を呼ばず「元魯山」と称した。

王維

  • 王維、字は摩詰、太原祁の人。父の處廉は汾州司馬で終わり蒲州に移り住み河東の人となった。開元九年、進士に及第。母の崔氏に孝を尽くし、弟の縉と共に俊才で博学多芸、閨門は友悌に篤く多くの士に推重された。右拾遺・監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任。母の喪では痩せ骨立するほど哀毀し、服喪明けに吏部郎中を拝し天寶末、給事中となった。
  • 安祿山が両都を陥した際、玄宗の逃避行に及ばず賊に捕らわれた。維は薬で下痢を起こし瘖病(言葉が話せない病)と偽った。祿山は元来その才を愛し洛陽の普施寺に拘留し偽官を強いた。祿山が凝碧宮で梨園・教坊の楽工を集め宴を開いた際、維は悲しみ密かに詩を作り、万戸が心を痛め野に煙を上げ官吏は再びいつ天子に朝せるか、秋槐の花が散る虚しい宮中に凝碧池の管弦だけが響くと詠んだ。長安奪還後、賊に仕えた官を三等に分けて処罰する中、維はこの詩が行在に伝わり粛宗に嘉され、弟の縉が自らの刑部侍郎位を削って兄の罪を贖おうと願い出たこともあり特に許され太子中允に落ち着いた。乾元中、太子中庶子・中書舍人に遷り再び給事中を拝し尚書右丞に転じた。
  • 維は開元・天寶間、詩名で盛んに聞こえ両都で諸王・駙馬・豪貴の門はみな席を払って迎え、寧王・薛王は師友のように遇した。特に五言詩に長じ書画も極致に達し、山水の平遠、雲峰石色を描く筆致は絵師の及ばぬ天機を見せた。ある者が誰の作か不明な奏楽図を持参すると維は「霓裳羽衣曲第三畳第一拍」と一目で言い当て、楽工に演奏させ寸分違わずみな精思に感服した。
  • 維兄弟は仏を奉じ常に精進料理を食し晩年は長斎で文彩の衣を着なかった。宋之問の藍田別墅(輞川)を得て輞水が舍下を巡り竹洲花塢が広がる地で道友裴迪と舟遊びし彈琴賦詩に興じ、その詩を集め《輞川集》とした。京師にいる日は十数人の僧に食を供し玄談を楽しみ、居室には茶鐺・薬臼・経案・縄床のみを置いた。退朝後は香を焚き独り座り禅誦に努めた。妻の死後は再婚せず三十年孤居し俗事を絶った。乾元二年七月に卒した。臨終の際、鳳翔にいた弟縉宛ての別れの書と、生前の親故宛ての数通の書を認め、いずれも仏を奉じ心を修めるよう友を励ます内容であった。
  • 代宗の代、縉が宰相となった折、文を好む代宗が「卿の兄は天寶中に詩名代を冠し、朕もかつて諸王の宴でその楽章を聞いた、今どれほど文集があるか進めよ」と問うと、縉は「兄の開元中の詩は百千余篇あったが天寶の乱後は十のうち一も残らず、親故の間で編纂を集め四百余篇となった」と答え、翌日献上すると帝は詔を下し褒賞した。縉には別に伝がある。

李白

  • 李白、字は太白、山東の人。若くして卓越した才があり志気は宏放、飄然と俗世を超える心を持った。父の任城尉ゆえ任城に居を構えた。若くして魯中の書生孔巢父・韓沔・裴政・張叔明・陶沔らと徂徠山に隠れ酣歌縦酒し「竹渓六逸」と称された。天寶初、会稽に遊学し道士呉筠と剡中に隠棲した。玄宗が呉筠を京師に召した際、筠が朝廷に推挙し使者が迎え、白は筠と共に翰林待詔となった。李白は酒を好み日々飲徒と酒肆に酔い、玄宗が新曲の楽府詞を求め急ぎ召したが白は既に酒肆に臥しており、召し入れ水を顔にかけると筆を執り、たちまち十余章を作り帝に大いに悦ばれた。かつて殿上で泥酔し高力士に靴を脱がせたことから斥けられた。以後は江湖を放浪し終日酒に溺れた。金陵に左遷された侍御史崔宗之と詩酒で唱和し、月夜に舟で采石から金陵へ渡る際、宮錦の袍を着て舟中で傍若無人に笑い興じたという。
  • 賀知章は初めて白を見て「天上の謫仙人だ」と賞賛した。安祿山の乱で玄宗が蜀に幸した際、道中で永王李璘を江淮兵馬都督・揚州節度大使とした。白は宣州で謁見し従事に招かれたが永王の謀反が敗れ、白も連座し夜郎への長流に処された。のち赦免されて戻ったが飲酒過度のため宣城で酔死した。文集二十卷が世に行われた。

杜甫

  • 杜甫、字は子美、本は襄陽の人、のち河南鞏縣に移った。曾祖の依藝は鞏令、祖父の審言は膳部員外郎(別に伝がある)、父の閑は奉天令で終わった。
  • 天寶初、進士に応じ落第。天寶末、《三大禮賦》を献じ玄宗に才を認められ文章を試され京兆府兵曹参軍を授けられた。(天寶)十五載、安祿山が長安を陥すと粛宗が霊武で徴兵し、甫は京師から夜逃げして河西に赴き粛宗に謁し彭原郡で右拾遺を拝した。房琯とは布衣時代からの友で、琯が宰相として自ら討賊の軍を率いる願いが許されたが同年十月、陳濤斜で敗れた。翌春、琯は罷相となり、甫が「琯には才がある、罷免すべきでない」と上疏すると粛宗は怒り琯を刺史に貶め甫も華州司功参軍に出した。当時関畿は乱れ穀物は高騰し、甫は成州同谷縣に寓居し自ら薪を採り穭(落穂)を拾う生活の中で子女を数人餓死させた。のち京兆府功曹に召された。
  • 上元二年冬、黃門侍郎・鄭國公嚴武が成都を鎮した際、節度参謀検校尚書工部員外郎に奏授され緋魚袋を賜った。武と甫は代々の交わりで厚遇されたが、甫は褊狭で恃んで放恣な性であり、酔って武の床に登り「厳挺之(武の父)にこんな子がいたとは」と睨みつけたが武の急な気性でも咎めなかった。甫は成都浣花里に竹を植え木を結び江辺に廬を結び縦酒嘯詠し田夫野老と気安く交わり、武が訪れても冠をつけないほど傲然としていた。永泰元年夏、武が卒すると甫は頼るところを失った。郭英乂が武に代わり成都を鎮すると英乂は武人で粗暴、甫は謁見できず東蜀に赴き高適を頼ったが着いた時には既に適も没していた。この年、崔寧が英乂を殺し楊子琳が西川を攻め蜀中は大乱となった。甫は家族と共に荊楚へ避難し扁舟で峡を下ったが江陵も乱れ、湘水を遡って衡山に遊び耒陽に寓居した。嶽廟に参詣中に洪水に阻まれ十日も食にありつけず、耒陽の聶県令が舟で迎えに来た。永泰二年、牛肉と白酒を口にした一夜のうちに耒陽で59歳で卒した。
  • 子の宗武は湖湘に流落して卒し、元和中、宗武の子の嗣業が耒陽から甫の柩を偃師縣西北の首陽山前に改葬した。
  • 天寶末の詩人として甫は李白と並称されたが、白は自身の奔放な文格を誇り甫を「齷齪」と譏り「飯顆山の嘲り」と呼ばれる揶揄をしたという。元和中、詞人元稹は李杜の優劣を論じ「詩は堯舜の唱和から《詩》三百篇、離騒、漢魏楽府、五言、律詩と変遷し、杜甫に至ってその小大の要を総合するに至った」とし、子美の詩は上は《詩》《騷》を薄め下は沈佺期・宋之問に及び、蘇武・李陵の言を奪い曹植・劉楨の気を呑み、顏延之・謝霊運の孤高を掩い徐陵・庾信の流麗を雑え、古今の体勢を尽く得て一人で衆人の専有する技をすべて兼ね備えていると評した。同時代の李白も文の奇で称され「李杜」と並び称されたが、元稹はその壮浪縦恣な描写や楽府詩は子美と肩を並べうるものの、長編の鋪陳や声韻の整った律切な対句、千言に及ぶ構成といった点では李白は子美の域に遠く及ばぬと論じた。この元稹の論は後世に是とされた。甫の文集は六十卷。

吳通玄

  • 吳通玄は海州の人。父の道瓘は道士で童子の教育に長じ、大歷中、宮中に召され太子・諸王に経を授けた。徳宗は東宮時代に道瓘に師事し、通玄兄弟も宮掖に出入りし常に太子に侍したため厚遇された。通玄は兄の通微と共に博学で文に巧みで彩り豊かな文を書いた。通玄は幼くして神童挙に応じ秘書正字・左驍衞兵曹・大理評事を初任とし、建中初、賢良方正科等に策問され清麗な文詞で乙第に登り同州司戸・京兆戸曹を授けられた。
  • 貞元初、翰林学士に召され起居舍人兼知制誥に遷り陸贄・吉中孚・韋執誼らと共に文書の草案を見た。陸贄は文才豊かで徳宗の信任篤かったが、通玄兄弟も東宮侍講の縁で寵を争い互いに嫌悪した。贄は性急で帝の前で通玄を貶め「翰林学士の名は粛宗以来の臨時措置にすぎず今は中書舎人に職掌を戻すべき」と学士職の廃止を進言したが徳宗は許さなかった。贄は権知兵部侍郎兼知貢挙に転じ内職を罷められたが、これは通玄の讒言によるものであった。
  • (貞元)七年、起居郎から諫議大夫兼知制誥を拝したが、通玄は中書舎人昇進を期待していただけに失望した。宰相竇參と不仲だった陸贄に対し、參の甥の給事中竇申(渾名「喜鵲」)と則之(虢王の従子)が通玄兄弟と結んで陸贄を陥れる謀を企て、則之が贄の科挙不正を訴える誹謗文書を捏造した。折しも通玄が宗室の娘を外妻としていたことを徳宗が知っており、竇申・李則之の讒言計画が発覚すると激怒し、竇參は罷免のち郴州司馬に貶められ、竇申は錦州司戸、李則之は昭州司馬、通玄は泉州司馬に貶められた。帝は通玄を親しく問い質し宗室を汚した罪を責め、華州長城駅に至った際に死を賜った。まもなく陸贄が中書侍郎・平章事として竇參に代わった。

附 吳通微

  • 兄の通微は建中四年、壽安縣令から金部員外郎に召され翰林学士を兼ね、まもなく職方郎中知制誥に改まり弟通玄と同じ禁署に在り栄とされた。(貞元)七年、礼部郎中を経て中書舎人に転じた。通玄の死に際し喪服を着て国門で罪を待ったが帝は特に許し、通微はついに喪に服さなかった。
  • 通玄の文才は婉麗で帝に特に愛された。貞元初、昭德王皇后崩御の際、詔で李紓が謚冊文を、宰相張延賞・柳渾が廟楽章を作ったがいずれも旨にかなわず通玄が重ねて撰し直し、帝の勅撰にはみな通玄の筆でなければ満足しなかったほどであった。

王仲舒

  • 王仲舒、字は弘中、太原の人。幼くして父を失い貧しい中、母に孝を尽くした。学を好み文に巧みだったが郷挙には応じなかった。交わる相手は必ず知名の士に限り楊頊・梁肅・裴樞と忘形の交わりを結んだ。
  • 貞元十年、賢良方正能直言極諫科に策試され乙第に登り右拾遺に抜擢された。裴延齡が度支を掌り誇大な虚言で良善を中傷した際、仲舒は上疏して激しく論じた。尚書郎に累遷。元和五年、職方郎中知制誥。仲舒の文思は温雅で制誥はみな人々に伝写された。京兆尹楊憑が中丞李夷簡に弾劾され臨賀尉に貶められた際、憑と親しい仲舒は「夷簡が憑の罪を掎摭している」と朝廷で公言し、これに連座して硤州刺史に貶められ、のち蘇州刺史に転じた。
  • 穆宗即位後、召還され中書舎人。この年、洪州刺史・御史中丞・江南西道観察使に出た。江西では従来私醸を厳しく取り締まる酒榷の法があったが仲舒はこれを廢し、また官銭二万貫を出して貧民の税を代納した。長慶三年冬、任地で卒した。

崔咸

  • 崔咸、字は重易、博陵の人。祖父の安石、父の鋭は給事中で終わった。元和二年、進士に及第しさらに博學宏詞科にも登った。鄭餘慶・李夷簡に賓佐として師友のように遇された。台閣を歴任し独行守正で時望が篤かった。敬宗が東都行幸を望み人心が不安な折、勲旧の裴度が興元から朝見のため京に入ると、李逢吉は度の中書復帰を望まず、その党の京兆尹劉栖楚らが度を排斥しようとした。栖楚が度に取り入ろうと耳打ちする様を咸は憎み度に酒を勧めながら「丞相たる者、下役の耳打ちを許すべきでない」と叱ると、度は笑って飲み栖楚は決まり悪げに退出し、座の客はみな咸の胆力を壮とした。
  • 陜州大都督府長史兼陜虢観察使等使に累遷し、朝から晩まで賓僚と痛飲し常に酔い、夜になって文書を精査し寸分違わず処理したため胥吏に「神人」と称された。右散騎常侍・秘書監に入り太和八年十月に卒した。
  • 咸誕生の由来として、父の鋭が李抱真の澤潞従事だった頃、隋の雲際寺李先生に仕えたと自称し過去未来を予知する道人「盧老」がおり、鋭が家に留めたところ「私は死んだらお前の子に生まれ変わる」と告げ口下の黒子を目印にすると告げて去った。咸が生まれた時、果たしてその黒子があり、風貌も盧老に似ていたため父は咸を字とした。成人後は林壑に心を寄せしばしば独り南山に遊び長く帰らぬこともあった。特に歌詩に長じ、晴天の花朝月夕に朗吟すると悽愴な情に涙するほどで名流に称嘆された。文集二十卷。

唐次

  • 唐次、并州晉陽の人、国初の功臣礼部尚書唐儉の後裔。建中初、進士に及第し使府を歴任。貞元初、侍御史に至り竇參に深く重んじられ礼部員外郎に転じた。(貞元)八年、參が貶官された折、次も連座し開州刺史に出された。巴峡の地に十余年留め置かれ登用されなかった。西川節度使韋皋が副使に推挙する表を上げたが、徳宗は密かに皋に取りやめさせた。長く蛮荒の地に沈む鬱屈から、次は古来讒謗により放逐され死に至った忠臣賢士の例を集め、君主が悟らぬまま殺されたことを論じた《辨謗略》三篇を著し献上した。徳宗は読んで「唐次はまるで朕を昔の暗主のように仕立てている」と怒り、夔州刺史に改めた。憲宗即位後、李吉甫と共に召還され礼部郎中、まもなく本官のまま知制誥、正式に中書舎人を拝し卒した。
  • 憲宗(章武皇帝)は明哲で悪を憎み特に朋党の陥害を嫌った。禁中で書を閲覧し次の上げた三篇を見て学士沈傳師に「唐次の集めた辨謗の書は君主が観るべきもの、古書にはさらに多くの例があるはずで次の編は未だ尽きていない、卿の家は史学が伝わっている、学士らと類例を広げよ」と命じ、傳師は令狐楚・杜元穎らと分担して十卷に拡充し《元和辨謗略》と名付けた。その序では、天地・陰陽になぞらえ邪正の言論の別を論じ、堯舜の讒を憎む詔に倣い今上が辨謗の書を修めたことを称え、周漢から隋までの讒謗にまつわる史実を集めたことを述べた。憲宗はこれに優れた詔で応えた。
  • 次の子は扶・持。

附 唐扶

  • 子の扶、字は雲翔。元和五年、進士に及第し使府を歴任。監察御史から刺史に出た。大和初、屯田郎中として入朝。五年、山南道宣撫使を兼ね鄧州に赴いた際、内郷縣行市・黃澗兩場の倉督鄧琬らが湖南・江西からの糙米を淅川縣の荒野に囤貯し、支用分を除く6945石が腐敗し灰塵と化していた不正を摘発、貞元二十年以来28年にわたり鄧琬の父子兄弟から玄孫まで代々禁繋され前後9人が獄死していた事実を奏上した。勅により鄧琬らは疏放され、天下の州府にも三年以上の禁繋を禁じる令が下され、扶の宣撫の才が称された。まもなく司勲郎中に転じ、(大和)八年、弘文館学士兼判院事、九年、職方郎中権知中書舎人事、開成初、正式に中書舎人を拝し一月余りで福州刺史・御史中丞・福建団練観察使に出され、四年十一月、任地で卒した。
  • 扶は幕府での才略で登朝したが、甌閩(福建)の観察使として政治は治まらなかった。没後、僕妾が財を争い訴訟を起こし十万貫の家財の裁定で二人の妾に帰した。また部下を無実の罪で殺した訴えもあり、行いの前後不一致を時論に非難された。

附 唐持

  • 子の持、字は徳守。元和十五年、進士に及第し諸侯府を歴任。侍御史・尚書郎として入朝。大中末、工部郎中から容州刺史・御史中丞・容管経略招討使に出、給事中として入朝。大中末、検校左散騎常侍・靈州大都督府長史・朔方節度・靈武六城転運等使を経て検校戸部尚書・潞州大都督府長史・昭義節度・澤潞邢洺磁観察処置等使に進み卒した。

附 唐彥謙

  • 持の子の彥謙、字は茂業。咸通末、進士に応じたが才高く気概あって屈せず十余年及第しなかった。乾符末、河南で盗賊が起こり両都が陥ちると家族を漢南に避難させた。中和中、王重榮が河中を鎮した際、従事に招かれ河中節度副使に至り晉州・絳州の刺史を歴任した。彥謙は博学多芸で文詞壮麗、書画音楽・博打・飲酒の技も並ぶ者がなく、特に七言詩に長じ若い頃温庭筠に師事したため文体もそれに似ていた。
  • 光啓末、王重榮が部下に殺され朝廷が佐官を責めた際、彥謙と書記李巨川はともに漢中掾曹に貶められた。興元を鎮する楊守亮は彥謙の名を聞き喜んで手を握り「久しく尚書の名を聞いていたが、ここで会うとは」と語り、翌日判官に任じた。副使、閬州・壁州二郡の刺史を歴任し漢中で卒した。詩数百篇があり礼部侍郎薛廷珪が序を書き《鹿門先生集》と名付けられ世に行われた。子の渙も郡守に至った。
  • 彥謙の次弟には歡・款・欣がおり、款は貞元六年、進士に及第し使府を歴任、御史から郡守に出て卒した。款の子の枝、字は己有、会昌末、刑部員外郎から郎中に累遷し刺史を歴任して卒した。

劉蕡

  • 劉蕡、字は去華、昌平の人。父は勉。寳歷二年、進士に及第。博学で文に巧みとりわけ《左氏春秋》に精通した。友人との交わりでは王覇の大略を語ることを好み、耿介で悪を嫉み世務に及ぶと澄清の志を熱く語った。元和末以来、宦官の権勢が盛んになり宮闈で兵を握り天下を横制し天子の廃立まで左右していた。当時朝廷は宦官の「北司」と外朝の「南司」に分かれ愛憎が水火のごとく対立していた。蕡は在野にあって常に憤りを抱いていた。文宗即位後、太和二年、賢良を策試する詔が下され、玄黙無為の古の理想的統治から今の政の不備(旱魃・国庫の乏しさ・京師の綱紀の乱れ・太学の学業の怠慢など)を問い、その改善策を求めた。
  • 対策者百余人はみな通り一遍の答えに終始したが、蕡だけは宦官(黃門)の専横が社稷を危うくしていると切実に論じた。上表ではまず、直言する道もなく憤りを抱いてきたが今この対策の機会を得て包み隠さず述べる旨を述べ、策問にある「古の聖王の無為の治」「憂労の志」への回答として、賢を任じ左右の讒佞を退け大臣を進めるべきこと、《春秋》の「元」「即位」を正す道理を引いて君主の言行が常に正しくあるべきことを説いた。
  • その核心として、五、六人の側近(宦官)が天下の大政を握り外は陛下の命を専らにし内は陛下の権を窃み、朝廷を威圧し天下に勢を傾け群臣もその実態を指摘できず天子もその心を制御できずにいる現状を、後漢末の宦官曹節・侯覽の再来になぞらえ「これが宮闈の将に変ぜんとする所以」と断じた。さらに《春秋》の故事(魯定公の即位の乱れ、王札子の専権殺害、晉の趙鞅の反乱、狐射姑の陽處父殺害など)を次々に引き、皇儲がまだ立てられず郊祀も行われず将相の職掌が定まらぬことを「社稷の将に危うからんとする所以」、藩鎮の跋扈と兵権の紊乱を「天下の将に傾かんとする所以」「海内の将に乱れんとする所以」として、樊噲・爰盎・京房・竇武ら漢代の忠臣が身を挺して諫めた故事も引いた。
  • 続けて、公卿大臣が言えぬのは陛下がそれを用いぬと恐れるためであり、陛下が便殿で賢相・老臣を召し持変扶危の策を求め、陰邪の路を塞ぎ側近を退けるべきこと、堯舜が賢を挙げ四凶を誅した治世に倣い秦の二世・漢の元帝成帝が安危の機を見誤り姦人を親しみ滅亡した教訓を戒めとすべきことを説いた。百姓の窮乏が陛下に届かず陛下の慈しみも民に届かぬ現状を《春秋》の「梁は自ら亡ぶ」の故事になぞらえ、権力が側近に集中し貪官汚吏が跋扈し土崩の勢いにあることを痛切に訴え、漢の陳勝呉広・赤眉黃巾の乱がまた起こることを憂えた。
  • さらに国権を宰相に、兵権を将帥に返し、貪吏姦吏の害を除き忠賢正直を用いるべきこと、修己による教化、制度整備による富国安民、精誠による災害への対応、農繁期を避けた労役、考課の実質化、軍と農・中官と外朝の法を一つに統べるべきこと(唐初の府兵制の理想への回帰)、学校の再興、刺史の人選の重要性、奢侈品規制など、策問の各項目に逐一具体的な答申を行った。最後に、晁錯が漢のために諸侯削減策を進言し禍を恐れず身を賭した故事、龍逢・比干・韓非・陳蕃ら諫死した先賢を引き、自らの言が禍を招くと知りつつも社稷の危機を看過できず上奏した旨を述べ結んだ。
  • この年、左散騎常侍馮宿・太常少卿賈餗・庫部郎中龎嚴が考策官を務め、いずれも当代の文士であったが蕡の対策文を見て感嘆し「漢の晁錯・董仲舒も及ばぬ」と評した。言論の激烈さは士林を感動させたが、登第者22人の中、宦官の勢力を恐れた考官は蕡を及第者名簿に残せず、世論は騒然として不満を訴えた。心ある人々は蕡の文を伝え読み涙する者もいた。諫官・御史も憤慨したが執政の臣は宦官の怨みを避けるためこれを抑えた。ただ及第者の李邰だけは「劉蕡が落第し我々が登第するのは恥ずべきこと」と語り、自らの授かった官を蕡に譲ろうとしたが実現せず、人々はその心を称えた。令狐楚が興元にあった頃、牛僧孺が襄陽を鎮した際、それぞれ蕡を従事に招き師友のように遇した。官は使府御史で終わった。

李商隱

  • 李商隱、字は義山、懷州河内の人。曾祖の叔恒は19歳で進士に及第し安陽令で終わった。祖父の俌は邢州録事参軍で終わった。父は嗣。
  • 商隱は幼くして文を能くした。令狐楚が河陽を鎮した際、まだ弱冠にも満たぬ年で著作を持って謁見し、楚はその若く俊敏な才を深く礼遇し諸子と交わらせた。楚が天平・汴州を鎮した際も巡官として従い毎年資装を給し推挙で都に上らせた。開成二年、進士に及第し秘書省校書郎を初任とし弘農尉に転じた。会昌二年、さらに書判抜萃科にも及第した。
  • 王茂元が河陽を鎮した際、掌書記に招かれ侍御史も帯びた。茂元はその才を愛し娘を娶わせた。茂元は儒者だが本来将家の出で李德裕に重んじられ、当時政権を握った德裕が河陽帥に用いていた。德裕は李宗閔・楊嗣復・令狐楚と激しく対立しており、商隱が茂元の従事となったことで宗閔派に疎まれた。令狐楚は既に没し子の綯が員外郎として、商隱が恩を忘れたと特にその品行を憎んだ。まもなく茂元が卒すると商隱は京師に出たが長く任用されなかった。給事中鄭亞が桂州を按察した際、観察判官兼検校水部員外郎に招かれた。大中初、白敏中が政権を執り令狐綯も内署にあって共に李德裕を排斥した際、亞も德裕の党として循州刺史に貶められ商隱は数年岭表に随伴した。
  • (大中)三年、入朝すると京兆尹盧弘正が掾曹に招き文書を掌らせた。翌年、令狐綯が宰相となり商隱は再三陳情を上げたが顧みられなかった。弘正が徐州を鎮した際も掌書記として従い、府の解散後に入朝し再び文才を頼って太学博士に補された。河南尹柳仲郢が東蜀を鎮した際は節度判官兼検校工部郎中に招かれた。大中末、仲郢が専殺の罪で左遷されると商隱も職を失い鄭州に戻り、まもなく病没した。
  • 商隱は古文を能くし対句を好まなかったが、令狐楚の幕にあって楚が上奏の文(今体章奏)に長じていたためその法を授かり、以後今体の章奏を作るようになった。博学強記で筆を執れば止まらず、特に誄奠の辞に優れた。太原の温庭筠、南郡の段成式と並び称され「三十六」と呼ばれた。文思の清麗さでは庭筠が上回った。両者とも節操に乏しく才を恃んで詭激であったため権貴に疎まれ、名宦は進まず生涯不遇のうちに終わった。

附 李羲叟

  • 弟の羲叟も進士に及第し諸府の賓佐を歴任した。商隱の表状集は四十卷。

溫庭筠

  • 溫庭筠、太原の人、本名は岐、字は飛卿。大中初、進士に応じ苦学し、特に詩賦に長じた。初め京師に至った際は人々に推重されたが、素行は雑然として身なりに構わず、絃楽に合わせて艶やかな詞を作った。公卿の家の無頼な子弟裴誠・令狐滈らと博打と酒に明け暮れたため長年及第しなかった。徐商が襄陽を鎮した折に頼り巡官に任じられた。咸通中、失意のうちに江東へ帰る途上、揚州を経由した際、令狐綯が在位中に自分を出世させなかったことを恨みつつ、新進の若者と遊里に耽り長く挨拶にも行かず、揚子院で金を無心し酔って夜間通行禁止を犯し虞候に殴られ顔を腫らし歯を折って戻った。揚州で訴えられ令狐綯が虞候を捕らえて処罰したが庭筠の醜聞も明るみに出て両者とも放免された。以後、その汚行は京師にまで知れ渡った。庭筠は長安に至り公卿に冤を訴える書を送り、政権を執っていた徐商に取りなしを頼んだが、まもなく商が罷相して揚州に出鎮すると、政敵に恨まれ方城尉に貶められ隋縣尉に転じ卒した。
  • 子の憲は進士に及第した。弟の庭皓は咸通中、徐州従事となったが節度使崔彥魯が龎勛に殺された際に共に殺害された。庭筠の著述は多く詩賦は韻格清抜と文士に称された。

薛逢

  • 薛逢、字は陶臣、河東の人。父は倚。会昌初、進士に及第し秘書省校書郎を初任、宰相を罷め河中を鎮した崔鉉に従事として招かれ、鉉が再び政権に復すると万年尉に奏授され翰林に直し侍御史・尚書郎に累遷した。文詞は俊抜で議論は激しく経世の才を自負したが長く不遇であった。進士応試の頃、彭城の劉瑑と親しかったが瑑の詞藻は逢に及ばず逢はしばしば見下していた。大中末、瑑が出世し禁中の官を歴任すると逢はますます不遇となり互いに怨むようになった。
  • まもなく瑑が知政事となった際、ある者が逢の知制誥登用を推薦したが、瑑は「先朝の制で両省の官(給事中・中書舍人)は必ず州県の経験を経てから任じるべき、逢は郡を治めた経験がないので先に試すべき」と奏し、逢は巴州刺史に出された。その後、沈詢・楊收・王鐸が相次いで学士から将相となったがいずれも逢と同年の進士で、文才は逢が最も優れていた。楊收が宰相となった後、逢は「金印を帯び朝廷に仕える者だけが、共に沙堤(宰相の通り道)を避けて通る立場にある」といった詩を作り、翼を持つ鳳凰は時を得ればみな瑞祥だが、水を得ぬ潜龍はいたずらに神通を語るのみと皮肉ったため、收はこれを聞き深く恨んだ。逢は再び蓬州刺史に出された。收が罷相後は太常少卿給事中として入朝。王鐸が宰相となった際にも「昨日の鴻毛は万鈞の重さに、今朝の山岳は一塵の軽さに」との詩で鐸を怨んだため、才を恃み偏狭な性を人々に軽んじられた。秘書監に遷りそこで卒した。

附 薛廷珪

  • 子の廷珪、中和中、進士に及第。大順初、司勲員外郎に累遷し知制誥、正式に中書舎人を拝した。乾寧三年、太原に使いした帰途、昭宗が華州に幸したことを知ると左散騎常侍に改められた。病を理由に辞して成都に客遊した。光化中、再び中書舎人となり刑部・吏部の侍郎を歴任、権知礼部貢挙を務め尚書左丞を拝した。後梁に入り礼部尚書に至った。

李拯

  • 李拯、字は昌時、隴西の人。咸通十二年、進士に及第。乾符中、府幕を歴任。黃巢の乱で平陽に避難。僖宗の帰京後、尚書郎に召され考功郎中知制誥に転じた。僖宗が再び寶鷄に幸した際は従うことができず、鳳翔に留まると襄王が僭号し翰林学士を強いられた。拯は偽の官職に汚された心境を安んじられず、のち朱玫が政権を執り紀綱が乱れる中、朝を退き国門で馬を止め南山を望んで、紫宸殿での朝儀の思い出と丹鳳楼前で馬を止めて眺める今の姿を対比し、変わらぬ終南山の色だけが清明のうちに長安を満たしているとの詩を吟じ涙した。
  • 王行瑜が朱玫を殺すと襄王は出奔、京城が乱れる中、拯は乱兵に殺された。妻の盧氏は書に通じ文才があり容姿にも優れ、拯の死後その屍に取りすがって慟哭し、賊に迫られても動じず、兵で脅され片腕を斬られても最後まで屍から離れず賊に殺された。人々はみな悲しんだ。

李巨川

  • 李巨川、字は下已、隴右の人。国初十八学士の一人李道玄の後裔、故相李逢吉の姪の曾孫。父の循は大中八年、進士に及第。
  • 巨川は乾符中、進士に応じたが天下大乱に流離し禄位を求めて刀筆吏として諸侯府に仕えた。王重榮が河中を鎮した際、掌書記に招かれた。天子(僖宗)が蜀にあり賊が京師を占拠する中、重榮が諸藩を糾合し討賊に力を尽くした際の軍書奏請は文机に山積したが、巨川は文思敏速で筆を走らせるさまは飛ぶようで諸藩を驚嘆させ、重榮の京師収復の功にも巨川の助力があった。重榮が部下に殺され朝廷が佐官を罪した際、漢中掾に貶められた。興元を鎮する楊守亮は「天が李書記を我に与えた」と喜び、管記室から幕職に累遷させた。
  • 景福中、守亮が李茂貞に攻められ城が陥ちると数百人の部下と共に太原へ投じようとしたが秦に入り華州軍に捕らえられた。巨川も守亮に従い連座して械繋されたが、道中で樹の葉に詩を書いて華州の帥韓建に送り、その哀切な詞情に建は感じ入り縄を解いた。守亮が誅されると巨川は建の掌書記に任じられた。まもなく李茂貞が京師を犯し天子(昭宗)が華州に駐蹕すると、建は一州の力で万乗の供給を賄うことを憂え、巨川に天下への檄文を伝えさせ転餉の助力と京城修復を求め、四方の返書が集まる中で巨川は文を書き連ね理も情も適い、昭宗に深く重んじられその名は天下に知れ渡った。昭宗の帰京後、諫議大夫を特に授けられなお建を佐けた。
  • 光化初、朱全忠が河中を陥し潼関に進軍すると、建は恐れて巨川を全忠のもとへ送り恭順を示させた。河中で巨川が利害を説くと、既に帝位を窺っていた全忠はその内容を不快に思った。判官の敬翔も文筆で全忠に重んじられており巨川に地位を奪われることを恐れ「李諫議の文章は見事だが主君(全忠)には不利益」と讒言し、この日のうちに巨川は全忠に殺された。

司空圖

  • 司空圖、字は表聖、本は臨淄の人。曾祖の遂は密令、祖父の彖は水部郎中、父の輿は吏術に精通した。大中初、戸部侍郎盧弘正が塩鉄を領した際、輿は安邑両池榷塩使兼検校司封郎中に奏用され、従来疎漏だった塩法に新たな条例十条を定めて奏し今に至るまで便とされた。司門員外郎から戸部郎中に遷り卒した。
  • 圖は咸通十年、進士に及第し主司王凝にとりわけその才を認められた。凝が商州刺史に左遷された際も従い、凝が宣歙を按察するに至ると上客として招いた。殿中侍御史を拝したが赴任が遅れた咎で光禄寺主簿に落とされ東都に分司した。乾符六年、宰相盧攜が罷免され賓客として東都分司の身となった際、圖と交わり携はその高節を嘉し厚く遇し、圖の家を訪ねた際「姓氏(司空)は貴いが官班(御史)は卑しい、老夫がまだ在職の間は不遇を気に病むな」との詩を壁に書き記した。翌年、攜が入朝の帰途、陝州の帥盧渥に「司空御史は高士、厚く遇されよ」と語り、渥はその日のうちに賓佐に奏用した。同年、攜が再び政事を執ると圖を礼部員外郎に召し緋魚袋を賜り礼部郎中に遷った。同年冬、黃巢の賊が京師を犯し天子が出幸した際、圖は従いきれず河中に退いた。当時故相王徽も蒲州にあり圖を厚遇し、数年後、徽が潞州を鎮する詔を受けた際に圖を副使に表したが徽自身が赴任しなかったため沙汰やみとなった。僖宗が蜀から戻り鳳翔に至った際、圖は知制誥に召されまもなく正式に中書舎人を拝したが、この年僖宗が再び寶鷄に幸した際も従いきれず河中に退いた。
  • 龍紀初、再び中書舎人に召されたがまもなく病で辞した。河北の乱を機に華陰に寓居。景福中、諫議大夫として召されたが、朝廷が弱体化し綱紀が大いに乱れる中、圖は出仕より隠棲を選び病を理由に応じなかった。乾寧中、戸部侍郎として召され一度参内して謝意を示したが数日で山への帰還を願い許された。昭宗が華州にあった頃、兵部侍郎に召されたが足の病を理由に出仕せず謝表を送るのみであった。昭宗の洛陽遷都後、後梁への禅譲を図る柳璨が旧家の名族を陥れる中、圖も召される詔が下り、誅殺を恐れながらも病をおして洛陽に至り謁見の日に笏を落とし作法を失し、意図的に粗野に振る舞った。璨は屈させられぬと悟り「司空圖は科挙に及第し朝籍に列しながら高潔を装って世を軽んじ、山に籠ることで名を釣るがごとし、清濁いずれにも属さず公正の朝には居りがたい、その隠棲の志に従わせるべき」との詔を発し山への帰還を許した。
  • 圖には先人の別荘が中条山王官谷にあり泉石林亭の幽趣に富み、そこで名僧高士と詩を詠み暮らした。晩年の文章はますます自由奔放で、白居易の《酔吟先生伝》に倣い《休休亭記》を著し、亭を「休休」(休むこと、美なること)と名付けた由来として、自らの才・分・耄聵の三つの理由から隠棲すべきと述べ、夢に現れた二人の僧が「かつて汝の師であった、汝は昔道を求めて鋭かったが利欲に囚われた、悟って悔いたなら再びこの渓に従え、退いてもなお匪人に嫉まれるだろうが、恥を耐え忍び自ら戒め、陶淵明・白居易と千載の後に肩を並べよ」と語った逸話を記し、「耐辱居士歌」を東北の柱に題した。
  • 圖はまた柳璨の禍を逃れ山に戻った後、あらかじめ自らの寿蔵(生前墓)を築き、訪ねてくる旧友を墓穴に招き詩を詠み酒を酌み交わした。難色を示す客には「達人の大観では幽明は一致、しばしこの中に遊ぶだけのこと、何を狭量に構えるか」と諭した。布衣に鳩杖の姿で外出時は女使の鸞台を伴い、歳時の村社の祭礼には必ず赴き野老と同席して驕らなかった。王重榮父子兄弟にも厚く重んじられ贈り物が絶えなかった。唐が滅んだ翌年、輝王(哀帝)が済陰で弑された報を聞くと快からず病み、数日で72歳で卒した。文集三十卷がある。
  • 圖には子がなく甥の荷を嗣とした。荷は永州刺史に至った。甥を嗣としたことでかつて御史に弾劾されたが昭宗は咎めなかった。

史論

  • 国の華彩は人文によって成る。世代を隔てて傑出した才が現れ、文藻を奮い英才を広げる。駿馬の駆けるがごとき筆致、咸池・韶楽のごとき正調は、書に燦然と流れ姫周・嬴秦の文をも見下すほどである。