烏羅渾
- 烏羅渾国は後魏の烏洛侯にあたり、今は烏羅護とも呼ばれる。長安東北6300里、東は靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は烏丸に接する。風俗は靺鞨に同じ。貞観6年(632年)君長が貂皮を献上した。
史論
- 史臣曰く、北狄は中華に近接するため辺境侵犯が絶えないが、東夷は瀛海に隔てられているため擾乱は稀である。これは地勢だけでなく気質の差でもあり、太平の地の民は仁を、辺遠の地の民は武を尊ぶという通りである。隋煬帝が欲を恣にして遼東に出兵し、過酷な徴発を行ったことが、乱臣賊子に付け込む隙を与え隋滅亡の一因となった。我が太宗も自ら高麗親征を行い成功はしたが損失も大きく、凱旋の際「魏徴がいれば此の行はなかったろう」と述懐した。夷狄の国は石田(無用の地)に等しく、得ても益なく失っても損はない。虚名を求めて国力を浪費すべきでなく、文徳を修めて懐柔し、信頼できる臣を選んで安撫し、辺備を固めて防ぐことこそが夷狄を治める正道である。
- 賛に曰く、東夷の人、北狄の俗、周礼にいう「蛮服」である。得ても益なく、既に得た後も誇るに足りない。懐柔をこそ務め、緩やかに繋ぎ止めるべきである。