舊唐書卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 日本

日本国は倭国の別種とされる国。遣唐使を通じて留学生・学問僧を送り唐の文物・制度を学んだ。使節の一員朝臣仲満は帰国せず唐に長く仕えたことで知られる。

年表(4件)

日本

  • 日本国は倭国の別種である。国が日の出る方角にあるためこの名を付けたという。あるいは「倭国が自らその名の雅でないことを嫌って改めた」とも、あるいは「日本はもと小国で、倭国の地を併合した」ともいう。入朝する日本人はとかく誇大に語り実情を語らないため、中国側はその由来を疑っている。また、国境は東西南北各数千里、西界・南界は大海に至り、東界・北界は大山を限りとし、山の外は毛人の国であるという。
  • ある年(元号は底本欠字)、大臣朝臣真人が入朝し方物を貢いだ。朝臣真人は中国の戸部尚書に相当する官で、独特の冠(頂が花のように分かれる形)を戴き紫袍に帛の腰帯を締めていた。経史を好んで読み文章に通じ、立ち居振る舞いは温雅であった。宮中で宴を賜り官職(名称は欠字)を授けられて帰国した。これより先にも遣使があり儒者による経典講授を請い、四門助教が教授にあたった。使者は闊幅の布を束脩の礼として贈り「元年調布」と記していたが、唐側はこの銘記を偽物ではないかと疑った。賜与された品はすべて書物の購入に充て、海を渡って帰国した。
  • 使団の副使朝臣仲満は中国の風を慕って帰国せず留まり、姓名を改めて(新名は底本欠字)唐で任官(官職名も欠字)した。長安に50年在留し書物を愛好、帰郷を許されても逗留を続けた。天宝12載(753年)にも遣使があり、上元年間(760年頃)にこの人物は左散騎常侍・都護に抜擢された。
  • 貞観20年(□、原文の年号は既出の日本の記事の文脈からは特定できず底本のまま)、遣使入朝し留学生・学問僧を残した。元和元年(806年)、日本国使判官高階真人が「学生の学業がほぼ成ったので帰国させてほしい、私と共に帰らせたい」と上言し、許可された。開成4年(839年)にも遣使朝貢した。