舊唐書卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 新羅

新羅は弁韓の末裔で朝鮮半島東南部に興った国。唐と結んで百済・高麗を滅ぼして半島の大半を統一し、以後歴代の王が唐に朝貢し冊封を受け続けた。

年表(10件)

新羅

  • 新羅は弁韓の末裔で漢代楽浪の地にあり、東・南は海、西は百済、北は高麗に接し東西1000里、南北2000里。王城は金城(周囲7、8里)、衛兵3千・獅子隊を置き、文武官17等。王金真平は隋文帝から上開府・楽浪郡公・新羅王を授けられていた。武徳4年(621年)遣使朝貢、高祖は璽書と屏風・錦彩300段を賜り以後朝貢が絶えなかった。風俗・刑法・衣服は高麗・百済とほぼ同じだが朝服は白を尊ぶ。柳杯を用い、金・朴両姓が多く異姓婚を守り、元日・8月15日に盛大な祭礼を行う。
  • 高祖は三国の怨恨の由来を新羅使に問い、「かつて百済が高麗を攻めた際に新羅が救援して百済を大破したことに端を発する」との返答を得た。武徳7年(624年)、真平を柱国・楽浪郡王・新羅王に冊拝。
  • 貞観5年(631年)、新羅が美しい女楽2人を献じたが太宗は「郷里を思う情を憐れむ」として返した。この年真平が卒し子がなく娘の善德が女王となり乙祭が国政を総知、真平には左光禄大夫を追贈。9年(635年)善徳を柱国・楽浪郡王・新羅王に冊命。17年(643年)高麗・百済の連続侵攻を訴え救援を求め、太宗は相里玄奨を高麗へ派遣し警告、高麗親征時には新羅にも出兵を命じ、新羅は5万を発して水口城を降した。
  • 21年(647年)善徳が卒し光禄大夫追贈、妹真徳が柱国・楽浪郡王として即位。22年(648年)真徳の弟金春秋・子文正が入朝、春秋は特進、文正は左武衛将軍に。春秋は国学見学と釈奠観覧を求め、太宗の詩文・晋書などを賜られた。
  • 永徽元年(650年)、真徳は百済撃破を弟法敏を通じ報告、自ら織った錦に五言詩「太平頌」を献じた(大唐の徳を称える詩、全文要約収録)。太宗は法敏を太府卿とした。
  • 永徽3年(652年)真徳が卒し、春秋(太宗武烈王)が新羅王を継承(開府儀同三司・楽浪郡王)。6年(655年)百済・高麗・靺鞨の北界侵攻(30余城喪失)を受け求救、顕慶5年(660年)蘇定方の水陸10万に春秋も従軍し百済を平定、扶余義慈を捕虜として献じた。以後新羅は高麗・百済の旧地を併呑し領域を西の海まで拡大した。
  • 龍朔元年(661年)春秋が卒し子法敏(太府卿)が継承(開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王)。3年(663年)新羅を鶏林州都督府とし法敏を都督とした。法敏は開耀元年(681年)卒し子政明が継承。垂拱2年(686年)政明は唐礼一部を求め、則天は『吉凶要礼』を写し『文館詞林』から規誡に関わる詞を選び50巻にまとめて賜った。
  • 天授3年(692年)政明が卒し則天は挙哀、子理洪を新羅王に冊立(輔国大将軍・豹韜衛大将軍・鶏林州都督)。理洪は長安2年(702年)卒し則天は輟朝2日、弟興光を継がせた(興光の本名は太宗と同名であったため先天中に改名)。
  • 開元16年(728年)朝貢、儒教留学を請い上は許可。21年(733年)渤海靺鞨が登州に侵攻、金思蘭を帰国させ靺鞨討伐を発兵させ、興光に開府儀同三司・寧海軍使を加授。25年(737年)興光が卒し太子太保を追贈、子承慶を襲封(邢璹が弔祭冊立に赴き、詩文の応酬や囲碁交流あり)。
  • 天宝2年(743年)承慶が卒し弟憲英が継承。大暦2年(767年)憲英が卒し子乾運が継承(金隠居入朝、開府儀同三司・新羅王、母を太妃に冊封)。以後大暦年間しばしば朝貢(金・銀・牛黄・魚牙紬などの献上)。
  • 建中4年(783年)乾運が卒し子なく上相金良相が継承(貞元元年冊命)。良相が卒し従兄弟の敬信が継承。14年(798年)敬信が卒し嫡孫俊邕が継承(16年冊命、冊使韋丹は途中で俊邕の訃報を受け引き返す)。子重興が継承(永貞元年冊命)。
  • 元和元年(806年)以降、金力奇・金陸珍・金憲章らの遣使が続く。7年(812年)重興が卒し相金彦升が継承(開府儀同三司・検校太尉・鶏林州都督・寧海軍使・新羅国王、妻貞氏を妃に冊封)。以後長慶・宝暦・太和と朝貢が続き、太和5年(831年)彦升が卒し嗣子景徽が継承(母朴氏を太妃、妻朴氏を妃に)。開成元年(836年)以降も宿衛・留学の使者が往来。会昌元年(841年)新羅帰国官金雲卿を淄州長史とする措置が記される。