舊唐書卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 百濟

百済は扶余の別種で馬韓の故地に興った国。新羅との抗争を続けながら唐に朝貢したが、顕慶五年(660年)蘇定方に滅ぼされ義慈王は捕虜となった。遺臣の抵抗も白江口の敗戦で潰え、王族の血統もやがて絶えた。

年表(6件)
  • 武徳四年621年王扶余璋が唐に果下馬を献じ朝貢を始めた
  • 貞観十五年641年璋が卒し子の義慈が跡を継ぎ、太宗が帯方郡王・百済王に冊命した
  • 貞観十六年642年義慈が新羅の四十余城を攻め、高麗と結んで党項城の奪取を図った
  • 顕慶五年660年蘇定方が百済を大破し、義慈・太子隆ら五十八名を捕虜とした
  • 龍朔二年662年白江口の戦いで倭国の援軍を大破した
  • 儀鳳二年677年隆が熊津都督・帯方郡王として本蕃帰還を命じられたが、新羅を恐れ帰国せず没した

百濟

  • 百済も扶余の別種で馬韓の故地にあり、長安東6200里、大海の北・小海の南にある。東北は新羅、西は海を渡って越州、南は海を渡って倭国、北は海を渡って高麗。王城は東西2城。内官は内臣佐平(宣納)・内頭佐平(庫蔵)・内法佐平(礼儀)・衛士佐平(宿衛)・朝廷佐平(刑獄)・兵官佐平(外兵)の6佐平と外6帯方(10郡管轄)。法は叛逆死罪・没収、殺人は奴婢3人で贖罪、官人の収賄・盗みは3倍賠償かつ終身禁錮。王服は紫袍・青錦褲・烏羅冠(金花飾)、官人は緋衣・銀花冠、庶人は緋紫禁止。書籍は五経・子史のほか中華式の表疏を用いる。
  • 武徳4年(621年)、王扶余璋が果下馬を献上、7年にも朝貢し、高祖は帯方郡王・百済王に冊立。高麗による道路封鎖を訴え硃子奢が調停したが、新羅とは代々の仇敵として抗争が続いた。
  • 貞観元年(627年)、太宗は璋へ璽書を送り、新羅との和睦を求めた。璋は表面上従いつつ実際は抗争を続けた。11年(637年)朝貢し鉄甲雕斧を献上。
  • 15年(641年)璋が卒し子義慈が跡を継ぎ、太宗は帯方郡王・百済王に冊命。16年(642年)義慈は新羅の40余城を攻め高麗と結んで党項城の奪取を図る(新羅の入朝路遮断が狙い)。太宗が相里玄奨を派遣して両国に和議を諭したが、太宗の高麗親征に乗じ百済は新羅十城を襲い(22年にはさらに十余城を攻略)、朝貢は数年途絶した。
  • 高宗永徽2年(651年)再び朝貢。璽書で三韓の抗争停止と新羅からの奪地返還を求めたが(新羅王金法敏の上奏も引用)、6年(655年)新羅王金春秋が百済・高麗・靺鞨による北界侵攻(30余城喪失)を訴え、顕慶5年(660年)左衛大将軍蘇定方が大軍を率い百済を大破、義慈・太子隆・小王孝演ら58名を捕虜として長安に送った(上は罪を責めつつ赦免)。百済旧領(5部・郡37・城200・戸76万)は熊津・馬韓・東明等5都督府に再編され、王文度を熊津都督とした。義慈は孝行で知られ「海東の曾子・閔子騫」と呼ばれたが、入京後まもなく没し、孫皓・陳叔宝の墓の傍らに葬られた。
  • 王文度が渡海後に没すると、僧道琛・旧将福信が周留城で叛乱、倭国から旧王子扶余豊を迎えて王に立てた。劉仁願が包囲されるも、劉仁軌が新羅兵と合流し各地で勝利、道琛は熊津江口の柵を破られ任存城へ退いた。福信は道琛を殺し兵権を独占、劉仁軌の説得を拒み、扶余豊は祭祀のみ司る傀儡となった。
  • 龍朔2年(662年)、劉仁願・仁軌が支羅城・尹城・大山・沙井などの柵を陥落させ、真峴城も夜襲で攻略。福信は扶余豊と対立し誅殺され、扶余豊は高麗・倭国へ援兵を求めた。孫仁師率いる援軍7千と合流した唐・新羅連合軍は白江口で倭国援軍と四戦全勝、船400艘を焼き大勝(扶余豊は逃亡)。百済諸城は帰順し、扶余隆が熊津都督として帰国、新羅との和親を命じられた。
  • 麟徳2年(665年)、隆は新羅王法敏と熊津城で白馬の盟を結んだ(劉仁軌起草の盟文を要約収録)。両国の宿怨を解消し永く和親を保つとの誓約であった。仁願・仁軌帰還後、隆は新羅を恐れ長安に帰った。
  • 儀鳳2年(677年)、隆は光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王として本蕃帰還を命じられたが、旧地は既に新羅に侵食されており、隆はついに帰国せず没した。孫の敬は則天朝に帯方郡王を襲封・衛尉卿となったが、その地は新羅・渤海靺鞨に分割され百済の血統は絶えた。