舊唐書卷一百九十二 列傳第一百四十二 陽城

陽城

  • 陽城、字は亢宗、北平の人。代々の官宦の家。家が貧しく書を得られず集賢院の写書吏となることを求め官の書を盗み読み昼夜部屋を出ず、6年を経てあらゆる学に通じた。のち中条山に隠棲した。遠近の人々がその徳行を慕い多くが学びに来た。郷里の争訟は官府ではなく城のもとで裁定を求められた。陜虢観察使李泌がその名を聞き自ら訪ねて語り合い大いに悦ばれた。泌が宰相となった際、著作郎に推挙した。徳宗は長安縣尉楊寧に束帛を持たせ夏縣の居所に招かせ、城は褐衣のまま京へ赴き上表して辞退したが、徳宗は宦官に章服を持たせ着せてから詔を下し帛五十匹を賜った。まもなく諫議大夫に遷った。
  • 京に至る前、人々は「陽城山人は自らを厳しく律し名利を好まぬ、諫官となれば必ず命を賭して職を全うするだろう」と期待し畏敬したが、着任後、他の諫官が些細な事まで奏上する中、城は二人の弟や客と日夜痛飲して見識を計り知れず虚名と譏られた。訪ねてくる者があると城は察して座らせ酒を強いた。客が辞退すると城が自ら飲み、客がやむなく応じると酬酢が続き、時には客が先に酔って城の膝で眠ることもあり客の話を聞かないほどだった。二人の弟には「私の月俸は家族の人数と月の米・薪・菜・塩の費用を割り出し先に確保し、残りはすべて酒屋の女将に送れ、蓄えは残すな」と命じ蓄財を一切しなかった。使う物に欠かせぬものがあっても客が気に入ったと言えば喜んで譲った。ある陳某という者は月俸を受け取る時期に来て銭帛の美を褒め毎月利益を得ていたという。
  • 徳宗の代、宰相の権を借さず側近が政に容喙する中、裴延齡・李齊運・韋渠牟らの奸佞が相次いで用いられ時の宰相を讒言し大臣を誹毀し陸贄らも冤罪で貶められたが誰も救おうとしなかった。城は閣門に伏して上疏し拾遺王仲舒と共に延齡の奸佞と贄らの無実を論じた。徳宗は激怒し宰相を召し城に罪を加えようとしたが、当時東宮にいた順宗が城のために独り取りなし城は罪を免れた。金吾将軍張萬福は諫官が伏閣諫争したと聞き延英門に駆けつけ「朝廷に直臣あり、天下は必ず太平になる」と大声で祝し、城や王仲舒らに「諸君のように諫言できれば天下が太平にならぬはずがない」と語り「太平、太平」と連呼した。
  • 万福は武人で80余歳であったがこれ以来天下に名を重んじられた。延齡が宰相に登用されようとした際、城は「もし延齡が相となれば私は白麻(任命詔書)を破り捨てる」と語り、ついに延齡の一件で国子司業に改められた。
  • 城は国学に着任すると諸生を集め「学問とは忠と孝のためにある、久しく親を省みぬ者はいないか」と告げると、翌日には帰省を願い出た者が20余人に及んだ。
  • かつて城に学んだ薛約という者がおり性は狂躁で言論の罪で連州に流され頼るところなく寄寓していたが、台吏がその足取りを城の家に追った際、城は台吏を門前に座らせ約と酒を酌み交わして別れを告げ涙ながらに郊外まで見送った。徳宗はこれを聞き城が罪人に加担したとして道州刺史に出した。太学生の王魯卿・李償ら270人が闕下に詣で留任を願ったが、数日経つと吏に阻まれ上疏は届かなかった。
  • 道州では家人の法で吏人を遇し罰すべきは罰し賞すべきは賞し帳簿には拘らなかった。道州は土地柄小柄な民が多く毎年その男子を「矮奴」として貢納させられていたが、城は着任するや良民を賤民同然に扱うことを禁じ、民が毎年家族を離別させられる苦しみを憐れみ上疏してこれを免れさせ、以後この貢納は停止された。民はみな感謝し涙を流さぬ者はなかった。前刺史の贓罪を観察使が推鞫していた際、前刺史に取り入っていた吏が不法を暴いて功を立てようとしたのを、城はその場で杖殺した。賦税が集まらず観察使にたびたび叱責されると、州の考課で城は自ら「撫恤に心を尽くしたが徴税の政は拙い、考は下下」と評した。観察使が判官を派して賦税を督促させた際、城が出迎えないことを怪しみ州吏に問うと「刺史は判官の来訪を罪の追及と思い自ら獄に籠り出てこられない」と答え、判官は驚いて獄まで謁見に赴き「使君に何の罪があろうか、私はただ安否を伺いに来ただけ」と告げた。一二日留まったが城は館に戻らず、門外に横たわる古い扉板の上で昼夜過ごし続け、判官は落ち着かず辞去した。その後さらに別の判官が派遣されたが、その判官は道義上追及を望まず妻子を伴い赴任の途中で自ら職を辞した。
  • 順宗即位後、召す詔が下ったが城は既に卒していた。士君子は惜しみ、この年四月、家に銭二百貫文を賜り所在の州県に伝送させ喪を送り帰葬させた。