舊唐書卷一百九十二 列傳第一百四十二 吳筠

吳筠

  • 呉筠は魯中の儒士。若くして経に通じ文に巧みだったが進士に応じ落第した。高潔な性で俗世に馴染めず嵩山に入り潘師正に師事し道士となり正一の法を伝えられ、苦心して研鑽しその術をすべて極めた。開元中、南方の金陵に遊び茅山に道を訪ね、長らく東方の天台に遊んだ。
  • 著述にとりわけ長じ、剡の地で越中の文士と詩酒の会を開き、作った歌篇は京師にまで伝わった。玄宗はその名を聞き使者を遣わして召した。至って語り合うと大いに悦ばれ翰林待詔とされた。道法を問われると「道法の精髄は五千言(老子道徳経)に尽きる、枝葉の説は紙の無駄」と答え、神仙修練を問われると「これは在野の者の事、歳月と功行をかけて求めるもので人主が心を奪われるべきではない」と答えた。僧道が並び座る中でも朝臣の奏上には筠の言は常に名教世務にとどまり、時に諷詠を交え誠意を示した。玄宗は深く重んじた。
  • 天寶中、李林甫・楊國忠が政を執り綱紀が乱れる中、天下が乱れると見た筠は嵩山への帰還を強く求め、幾度も上表しても許されなかったが、嶽観に別に道院を立てる詔が下った。安祿山の乱の兆しに茅山への帰還を求めると許された。中原大乱の中で江淮にも盗賊が広がり東方の会稽に遊んだ。天台と剡の間を往来し詩人李白・孔巢父と詩を酬和し泉石に逍遙し多くの人が従った。ついに越中で没した。文集二十卷、《玄綱》三篇、《神仙可學論》などは達識の士に称された。
  • 筠が翰林にあった頃、特に恩顧を受けたことで僧侶の嫉みを買った。驃騎高力士はもとより仏を奉じ帝の前で筠を貶めたため、筠は不快がり山への帰還を求めた。そのため著した文賦には仏教を強く貶す内容もあり通人に譏られた。しかし言葉と理は宏通で文彩は輝き、一篇を作るたびに人々が争って書き写した。李白の放蕩、杜甫の壮麗を兼ね備えた者があるとすれば、それは筠であろう。