舊唐書卷一百九十二 列傳第一百四十二 田遊巖

田遊巖

  • 田遊巖は京兆三原の人。初め太学生に補されたがのち辞めて太白山に遊んだ。林泉が意にかなうたびに滞留し離れがたく、母と妻子も方外の志があり共に山水に遊ぶこと二十余年に及んだ。のち箕山に入り許由廟の東に室を築き「許由東隣」と自称した。調露中、高宗が嵩山に幸した際、中書侍郎薛元超を遣わし母を見舞わせた。遊巖は山衣田冠のまま出て拝すると帝は左右に支えさせ「先生は山中で道を養い近ごろ良い日々を過ごしているか」と問い、遊巖は「私は泉石に膏肓(不治の病のように離れがたい思い)を、煙霞に痼疾を抱く身、聖代に巡り会い逍遙を得ている」と答えた。帝が「朕が今卿を得たのは漢が四皓(商山四皓)を得たのと同じだ」と語ると薛元超は「漢高祖は太子廃立を望んだ故に四皓が現れたが、陛下が隠者を重んじ自ら巌穴に問われたのはそれ以上」と応じ、帝は大いに喜び遊巖を行宮に伴い、家族ごと伝乗で都へ召し崇文館学士に任じ太子少傅劉仁軌と語らせた。帝がのち嵩山に奉天宮を営む際、遊巖の旧宅が宮の側にあったが特に取り壊させず自ら「隠士田遊巖宅」と書いた額を門に掲げさせた。文明中、朝散大夫に進み太子洗馬を拝したが、垂拱初、裴炎との交わりに連座し特に山へ帰された。