舊唐書卷一百九十二 列傳第一百四十二 王績

  • 前代の帝王が丘園に賢を求め隠逸を招いたのは、貞退の節を重んじ貪り争う風を鎮めるためである。荘子は《讓王》篇を著し皇甫謐は高人の伝を立て、許由・巣父の跡は燦然と見るべきものがある。漢の二龔(龔勝・龔舍)が王莽の朝に仕えず節を守った例も俗を絶つのが本意ではなく嘉すべきものである。皇甫謐・陶淵明が世を軽んじ名を避け泉石に逍遙したのもまた善い例である。一方、身は江湖にありながら心は朝廷に向き薜蘿(隠者の装い)を借りて利を求め巌壑を仮りて名を釣る者もあり、進むも退くも節操が伴わない。阮籍の傲世佯狂、王績の嗜酒放蕩は才が及ばずとも智に余りある者で時を憂え用を晦ませた識者である。高宗・則天は山林に道を訪ね巌穴に招聘の書を飛ばしたが、田遊巖・史德義らが尊んだのは独行、盧鴻一・司馬承禎らが重んじたのは名を逃れることであり、出処語黙の大道を共に論じるには足りない。ここに旧説を残し雑篇に備える。

王績

  • 王績、字は無功、絳州龍門の人。若くして李播・呂才と忘れがたい交わりを結んだ。隋大業中、孝悌廉潔挙に応じ揚州六合縣丞を授けられたが好まず官を棄て帰郷した。河渚に元来田を数頃持ち、近くに隠士仲長子先が服食養性していたのを慕い河渚に廬を結び琴と酒で自ら楽しんだ。北山に遊び《北山賦》を作りその志を示した(詞は多く省く)。
  • 東臯で自ら耕したことから「東臯子」と呼ばれた。酒肆に立ち寄っては数日も居座り壁に詩を書き付けては好事家に諷詠された。貞觀十八年に卒した。臨終に自ら死期を占い薄葬を遺命し墓誌もあらかじめ自ら作った。文集五卷。《隋書》の撰も未完のまま没した。兄の通、字は仲淹は隋大業中の名儒で「文中子」と号され別に伝がある。