舊唐書卷一百八十七上 列傳第一百三十七上 夏侯端

序論

  • 『論語』は「生を求めて仁を害うことなく、身を殺して仁を成すことあり」と説き、孟子も「生と義のいずれも欲するが、生を捨てて義を取る」と説いた。古の徳行の君子は礼に従い仁を守り、艱難の中でも節を違えなかった。子路の結纓、鉏麑の触樹、紀信の蹈火、豫譲の斬衣はいずれも殺身成仁、臨難不苟の例である。
  • しかし刑を受けるのは一代のみでも、七族に及ぶ恥辱は残る。難を犯さぬ者には終身の利があり、時流に従う者は当世の栄を得る。気節が人並み外れていなければ、大切な身体を砕いて他人のための義に殉じることなどできない。
  • 安金藏が腹を割いて皇嗣の無実を明かし、段秀実が笏で元凶を撃ち、張巡・姚訚が城を守り、顔杲卿・真卿が賊を罵ったことは、いずれも安金藏に劣らぬ忠義である。秀実らについては別に本伝がある。ここでは夏侯端・李悽(李憕)以下の忠義の士をこの篇に収める。

夏侯端

  • 壽州壽春の人、梁の尚書左僕射夏侯詳の孫。隋の大理司直として高祖(李淵)と早くから交誼を結んだ。大業年間、高祖の河東討伐に副として従い、天象と人相に通じ「帝座が揺らいでいる、天下は乱れ、これを安んじるのは明公(高祖)である。李氏を疑う主上に先んじて計を為すべき」と説き、高祖はこれに深く同意した。
  • 義兵が起こると河東で捕らえられ長安に送られ投獄されたが、高祖の入京後に釈放され秘書監に任じられた。
  • 李密が王世充に敗れ帰順すると、端は自ら河南招諭を志願し大将軍・河南道招慰使として黎陽から二十余州を招撫、しかし譙州・亳州・汴州が相次いで王世充に降ったため道が絶たれた。
  • 兵糧が尽きても部下は離れず、端は「王命に従うのが自分の道であり、諸君は妻子のために私を斬って賊に持ち帰り富貴を得よ」と説いたが、部下は皆涙して離れなかった。潜行の末、餓死・戦死で大半を失い、残る三十余人と共に節を抱いて彷徨した。
  • 李公逸が守る杞州に迎えられたが、周囲は次々と王世充に降る中、公逸だけは端の義に感じて堅守した。王世充が高位の官を送って懐柔しようとしたが、端は書を焚き衣服を斬り拒絶、間道を経て宜陽に帰り着いた(同行三十二人のうち半数は道中で死んだ)。
  • 高祖は端の労苦を労い秘書監に復し、梓州刺史に出た。俸給はすべて孤寡に施した。貞観元年(627年)病没した。