舊唐書卷一百八十六下 列傳第一百三十六下 敬羽
敬羽裴升 畢曜附
- 敬羽は宝鼎の人、父敬昭道は開元初年の監察御史。容貌は醜いが人の意を察するのに長けた。天宝九載(750年)康成県尉から安思順の幕下、粛宗即位で監察御史となり苛酷な徴発で昇進。両京回復後は大枷や「肉餺飥」と呼ばれる拷問、棘刺を敷いた坑への落とし込みなど残忍な手法で財貨を取り立てた。
- 上元年間、御史中丞。宗正卿李遵の贓私事件では席次の礼を口実に威嚇し数千貫の贓を強引に認めさせ、粛宗は勲旧ゆえ罪を軽くした。嗣薛王李珍の謀反事件では鹴尾榆の枷で拷問し、竇如玢ら九人を斬罪、趙非熊ら六人を決殺、薛履謙を賜死、張鎬を左遷させた。
- 富商康謙が史朝義との内通を告発された際も拷問で財産を没収した。裴升・畢曜も同時期の御史として酷薄をもって知られ、「毛・敬・裴・畢」と並び称された。
- 裴升・畢曜はのち黔中に流された。羽は宝応元年(762年)道州刺史に左遷、さらに殺害の詔が下ると南方の渓洞に逃れたが捕らえられた。刑死の直前、州県官吏の贓私の証拠を懐に示し「この件を調べ尽くせなかったのが恨めしい」と語った。
史論
贊にいう――王徳が衰えるとき、政は奸臣の手に落ちる。鷹犬が獲物を搏つのは、それを放つ人がいるからだ。その毒牙にかかった者は悲しみ辛酸をなめた。法を作って害を為し、濫刑が不仁に至った。