舊唐書卷一百八十六下 列傳第一百三十六下 吉溫

吉溫王鈞 嚴安之 盧鉉附

  • 吉温は天官侍郎吉頊の弟吉琚の庶子。諂諛に長け宦官と親しくし、天宝初年、新豊丞から蕭炅を通じて高力士に取り入り信頼を得た。李林甫が李適之・張垍らと対立した際、蕭炅の命で兵部の偽濫事件を苛酷に鞫問し全員を自白させ、李林甫の目に留まり羅希奭と共に詔獄を専断するようになった。
  • 天宝五載(746年)京兆府士曹。李林甫が東宮を陥れようとした柳勣の獄を鞫問し数日で成立させ多数を杖殺。天宝六載、楊慎矜の讖書事件では史敬忠を巧みに脅迫して偽証を引き出し、御史盧鉉が偽の図讖を袖に忍ばせて捏造、慎矜兄弟は賜死された。
  • 温は安禄山・高力士と結び、「李林甫を宰相から追い出せば自分が宰相になれる」と禄山に取り入った。天宝十載(751年)河東節度副使、雁門太守を経て魏郡太守を歴任。楊国忠が入相すると御史中丞・京畿関内采訪処置使に召された。范陽との往来で朝廷の動静を安禄山に流し続けた。
  • 天宝十三載(754年)正月、安禄山入朝の際に武部侍郎・御史中丞を兼ねたが、河東太守韋陟の贈賄事件が発覚し陟は貶され温も澧陽長史に左遷。翌年また贓罪と奪人口馬事件で端州高要尉に貶されるが赴任を遷延、大理司直蔣沇の鞫問を受け獄中で死去した。
  • 玄宗は華清宮で「吉温は酷吏の子で、誑惑によって用いたが、卿らは今後安心せよ」と語った。温の死の二ヶ月後に安禄山は挙兵し、世人はこれを吉温への報復とみなした。安禄山は洛陽陥落後、温の遺児(六七歳)を厚遇した。
  • 盧鉉は御史から吉温・王鉷の判官として同様の苛酷な鞫問に加担し、韋堅・張瑄・王鉷らの獄を捏造した。廬江長史に貶された後、張瑄の祟りに遭ったと言い残し急死した。