舊唐書卷一百八十六上 列傳第一百三十六上 來俊臣
來俊臣(雍州万年の人、?-705年以前)は博徒の子として生まれ、密告により罪を免れたのを機に武后期の酷吏となった。『告密羅織経』を著し密告・拷問の手法を体系化、狄仁傑ら重臣・宗室を次々と陥れて数千家を破滅させた代表的酷吏。最後は自らの讒言が仲間に及び棄市に処された。
年表(5件)
- 天授二年691年左台御史中丞となり、無頼数百人を集めて告密を組織した
- 如意元年692年狄仁傑ら六人を羅告したが冤罪が露見し釈放された
- 万歳通天元年696年洛陽令・司農少卿に復帰した
- 神龍元年705年中宗が詔して來俊臣ら酷吏の官爵を追奪させた
- 開元十三年725年程行諶が來俊臣ら二十三人の子孫の任官禁止を上奏した
序論
- 古来、天下を治める道は仁義から威刑へと下るにつれ変質し、商鞅・李斯のような術策の政治や、両漢の郅都・張湯、董宣・陽球のような苛酷な吏が現れた。孔子の「刑罰中らざれば民は手足の置き所なし」との言葉どおりである。
- 唐初は寛政で七十年ほど民を欺かず治まったが、則天が女帝として臨朝すると大臣がまだ従わぬ中、獄吏に政を委ね宗室を排除した。来俊臣・索元礼・万国俊・周興・丘神勣・侯思止・郭霸・王弘義らが次々に現れ、告密・羅織の獄を興し、忠義の士が数えきれぬほど誅殺された。武后はこれによって唐の鼎を移したが、酷吏の弊害も大きかった。
- 酷吏たちは公卿の生死を握り、王者の威を私し、悪事によって栄達したため、悪しき者はこれを羨み、死をも恐れなかった。
- のち中興後にも吉温・羅希奭、さらに敬羽・毛若虚のような苛法の徒が現れ、朝廷は再び獄訟に乱れた。
- 天道は淫を禍し、人道は殺を憎む。鞅・斯から毛・敬に至るまで、その跡を踏んだ者は皆誅滅された。悪を為して名を辱めた者は、原野で誅され、あるいは死後も鬼に誅される。天人の応報は虚しくない。
- 『春秋』の義に倣い、善悪を隠さず「酷吏伝」を著し、懲勧を示す。「前事を忘れざるは、来を将うる師なり」との言葉のとおりである。
來俊臣
- 雍州万年の人。父の来操は博徒で、友人蔡本の妻と通じ樗蒲で得た金で本を娶らせ、その時すでに身籠っていた子が俊臣である。兇険で生産を事とせず、和州で犯罪を犯した際に密告により罪を免れ、刺史東平王李続に杖打たれたが、後に続が誅されると再び密告して忠と評価され、侍御史・朝散大夫に進んだ。制獄を扱い、意に沿わぬ者を必ず巻き込み、前後族滅させた家は千余に及んだ。
- 天授二年(691年)、左台御史中丞。侯思止・王弘義・郭霸・李仁敬らと同悪相求め、無頼数百人を集めて告密を組織し、各地で同一の筋書きで人を陥れた。麗景門に推事院が置かれ、俊臣らが専断で鞫問し、入る者はほぼ全員が生きて出られなかった(「例竟門」と呼ばれた)。
- 俊臣は朱南山らと『告密羅織経』一巻を著し、密告の手法を体系化した。酢を鼻に注ぐ、火で炙る、糞穢に寝させるなど拷問は苛烈を極め、赦令が出る前には必ず重囚を密かに殺させた。索元礼らの大枷には「定百脈」「喘不得」など十の名がつけられ、囚人は見ただけで自ら罪を認めた。則天は厚く賞したため吏は競って酷を為すようになった。
- 如意元年(692年)、狄仁傑ら六人が羅告されたが、俊臣は自首すれば減刑するとの制を利用し、仁傑は「大周革命に唐の旧臣として誅を甘受する」と偽って謝罪、判官王徳寿に楊執柔を巻き込むよう脅されると柱に頭を打ちつけて拒んだ。仁傑は獄吏に頼み帛書に冤罪を訴え綿衣に隠して家人へ届けさせ、子の光遠が変事を上聞。則天は俊臣に問い質し、通事舍人周綝に視察させたが、俊臣は策を弄して隠蔽しようとした。鳳閣侍郎楽思晦の幼子が俊臣の苛酷を訴えたことも重なり、則天は仁傑らを召して真相を知り、六家は釈放された。
- 俊臣は大将軍張虔勗・内侍范雲仙を洛陽牧院で拷問し、訴えた虔勗を乱刀で斬殺、雲仙は舌を切られた。累次贓罪に問われながらも同州参軍などに左遷され、同僚の妻を奪い母を辱めるなど悪行を重ねた。
- 万歳通天元年(696年)、洛陽令・司農少卿に復帰。西蕃酋長阿史那斛瑟羅の美婢を奪おうと謀反の罪を着せたが、諸蕃長の訴えで免れた。綦連耀・劉思礼らの謀反を密告した明堂尉吉頊の功を横取りしようとして頊を羅告したが頊は辛くも免れた。
- 妻を強引に太原王慶詵の娘に代えたことから旧友衛遂忠と対立。武氏諸王・太平公主・張易之らをも羅告しようとしたため、彼らの共謀で罪を暴かれ、ついに棄市に処された。国人は老幼を問わず怨み、その肉を争って剮り取った。
- 神龍元年(705年)三月八日、中宗は詔して劉光業・王徳寿・王処貞・屈貞筠・鮑思恭・劉景陽ら苛酷な吏の官爵を追奪、冤罪で殺された者は礼をもって改葬させ、丘神勣・来子珣・万国俊・周興・来俊臣・索元礼・王弘義ら多くの酷吏の官爵を剥奪した。存命の劉景陽は減刑された。
- 開元十三年(725年)三月十二日、御史大夫程行諶は周朝の酷吏二十三人を「宗族殺害・良善毒害の情状重し」として子孫の任官を禁じ、陳嘉言ら四人は「情状やや軽し」として子孫の近任のみ禁じるよう上奏した。