舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 薛季昶
薛季昶、絳州竜門の人。則天朝の厳格な監察官・地方長官で、契丹討伐の失策を糾し悪吏を杖殺するなど威名を震わせた。張易之兄弟誅殺に功があったが、武三思打倒の進言が容れられず失脚し、儋州赴任前に自ら毒を仰いで死去、後に左御史大夫を追贈された。
薛季昶
- 薛季昶、絳州竜門の人。則天の初め、封事を上げて解褐で監察御史を拝した。しばしば制獄を按じて旨に称い累遷して御史中丞となった。万歳通天元年(696年)、夏官郎中侯味虚が兵を統べ契丹を討って不利な戦いを続け「賊徒は熾盛で常に蛇虎がその軍を導いている」と奏した。則天は季昶にその状を按験させ河北道按察使に任じた。季昶は先に軍に馳せ至り味虚を斬って上聞した。
- また槁城尉の呉澤という者が貪虐で横暴を極め、駅使を射殺し百姓の子女の髪を切って髢(かもじ)にするなどしていたが州将も制することができず、人吏の患いとなっていた。季昶はこれも杖殺した。これにより威は遠近に震え州県は風を望んで懾懼した。その後、恩信を布き善吏を旌揚した。汴州に孝女李氏がいて年8歳のとき父が亡くなり、柩を堂に殯すること10余年、毎日限りなく哭泣した。年長じると母が嫁がせようとしたが、髪を切って自ら誓い家に在って終生養うことを請うた。母が喪に服すると号泣し体を損ない滅性に至るほどであったが、家に男子がいないため自ら棺槨を営み、州里はその至孝を欽んで送葬する者は千余人に及んだ。葬儀が終わると墓の側に廬し蓬頭跣足で土を負って墳を築き、手ずから松柏数百株を植えた。季昶はその状を列上し、制で特に門閭を表彰し粟帛を賜った。
- 久視元年(700年)、季昶は定州刺史から入って雍州長史となり威名は甚だ著しく、前後の京尹に及ぶ者はなかった。まもなく文昌左丞に遷り魏・陝二州刺史を歴任した。長安末、洛州長史となり、いずれの任地でも厳粛をもって政をなした。
- 神龍の初め、張易之兄弟誅殺に預かった功により銀青光禄大夫を加えられ戸部侍郎を拝した。当時季昶は敬暉らに兵勢に乗じて武三思を殺すよう勧めたが、暉らはこれに従わずついにこれが原因で敗れた(詳細は「暉伝」にある)。季昶もこれにより累貶され桂州都督から儋州司馬を授けられた。
- 初め、季昶は昭州首領周慶立と広州司馬光楚客と折り合いが悪かった。儋州に赴こうとする際、慶立に殺されることを懼れ広州に行こうとしたが楚客をも嫌い、「薛季昶の行末はここまでか」と嘆き、自ら棺を作り薬を仰いで死んだ。
- 睿宗が即位すると制を下した(故儋州司馬薛季昶は剛幹義烈で早くから先帝の顧遇を承け中外を駆使し功績を昭らかにしたこと、荘賈・汲黯に比する強直さがあったこと、正を醜む者に異己として排除され横暴な処分を受けついに死に至ったことを悼み、左御史大夫を贈り敬暉らと同例で一子に官を与えることを命じた)。