舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 王方翼

王方翼

  • 王方翼、并州祁の人、高宗の王庶人(廃后王氏)の従祖兄。祖の裕は武徳の初め隋州刺史。裕の妻は高祖の妹同安大長公主。太宗の時、公主が尊属で年老いていたことから特に敬異を加え、しばしばその邸に幸し賞賜は累万に及んだ。方翼の父仁表は貞観中、岐州刺史となった。仁表が卒すると妻の李氏は公主に斥けられ鳳泉の別業に居った。当時方翼はまだ幼かったが、雇い人と力を合わせ勤めて働き苦心して計り、その功は無駄にならず数年で数十頃の田を開墾し館宇を修飾し竹木を植え連ね、ついに富家となった。公主の死後、長安に帰った。友人の趙持満が罪を犯して誅殺され西城の外に屍を晒されたが、親戚は誰もあえて収めなかった。方翼は「欒布が彭越を哭したのは大義であり、周文王が朽ちた骨を掩ったのは至仁である。友の義を絶ち主君を憚る仁を蔽うことで、どうして君に仕えられようか」と嘆き、その屍を収め礼を尽くして葬った。高宗はこれを聞いて嘉嘆し、これにより名を知られた。
  • 永徽中、累授されて安定令となった。大姓皇甫氏を誅し盗賊は止息し善政と称された。五遷して粛州刺史となった。当時州城は荒廃し壕塹もなく、しばしば寇賊に乗じられていた。方翼は卒を発して浚渫・築城させ多楽水を引いて城を環る壕とした。また私財を出して水碾磑(水車臼)を造りその利を税として飢餓した者を養い、宅の側に十余行の舎を建てて住まわせた。蝗害と凶作が重なった際、諸州の貧人は道端で死んだが粛州だけは多くの者が生き延び、州人は碑を立てて美を頌した。
  • 吏部侍郎裴行倹が西の遮匐を討った際、方翼を副とし検校安西都護を兼ねるよう奏した。また碎葉鎮城を築き四面十二門を立て、いずれも屈曲して隠伏出没する形とし、50日で完成させた。西域の諸胡はこぞって見物に来て方物を献じた。
  • 永隆中、車簿が反叛し弓月城を囲んだ。方翼は兵を率いて救援し伊麗河に至った。賊が前に来て拒むと縦撃してこれを大破し首級千余を斬った。まもなく二姓の咽曲がことごとく衆10万を発し車簿と勢いを合わせ方翼を拒んだ。熱海に屯兵し賊と連戦、流矢が腕を貫いたが佩刀で徐にこれを切り離し、左右は誰も気づかなかった。まもなく率いていた蕃兵に二心が生じ方翼を捕らえて賊に応じようとする謀があった。方翼は密かにこれを知り、皆を召して会議し偽って軍資を賜うように見せかけ、続々と引き取らせては即座に斬らせた。折しも大風が吹き、あわせて金鼓を振って音を紛らわせ、ついに7千余人を誅した。裨将を分道させて咽曲らを討ち襲わせた。賊は備えがなく大いに潰滅し、首領突騎施ら300人を擒え、西域はついに平定された。功により夏州都督に遷った。牛の疫病が流行し農作業ができなくなると、方翼は人力で耕す法を作り関鍵(仕掛け)を施し人が推すようにし、百姓はこれに頼った。
  • 永淳2年(683年)、詔で方翼を召し西域の事を議論しようとし、奉天宮で謁見し食を賜り語らった。方翼の衣に古い血の染みがあるのを高宗が問うと、方翼は熱海での苦戦の様子を詳しく答えた。高宗はその傷を袒がせて見て嘆じ「私の親族だ」と言い賞賜は甚だ厚かった。まもなく綏州の白鉄余が兵を挙げて反すると詔で方翼を程務挺の副として討たせた。賊が平定されると太原郡公に封ぜられた。
  • 則天が臨朝すると、方翼が庶人(王氏)の近属であることから密かに除こうとした。程務挺が誅されると、方翼が務挺と職を連ねて日ごろ親しかったことから追われて都に至り下獄、崖州に流されて死んだ。
  • 子の宝・珣・瑨はみな名を知られ、宝・瑨は開元中みな中書舎人となり、珣は秘書監に至った。