蔣儼
- 蔣儼、常州義興の人。貞観中、右屯衛兵曹参軍となった。太宗が遼東征伐を計画し、高麗への使者を募ったが誰もが畏憚していた。儼は人に「主上の雄略に華夷は威を畏れている、高麗の小蕃がどうしてあえてその使者を害そうとするだろうか。たとえ淩虐されても、それが私の死に場所だ」と言い、進んで赴くことを願い出た。高麗に至ると莫離支は窟室に閉じ込め兵刃で脅したが、儼はついに屈しなかった。折しも高麗が敗れたため帰ることができた。太宗はこれを奇として朝散大夫を拝させた。再遷して幽州司馬となった。善政により巡察使劉祥道に薦められ会州刺史に擢用された。再遷して殿中少監となり数々意見を陳べ、高宗は常にこれを優れて容れた。再転して蒲州刺史となった。蒲州は戸口が多く繁劇であり前後の刺史も多くは職に称わなかったが、儼が着任してまもなく令行禁止となり良牧と称された。
- 永淳元年(682年)、太仆卿を拝したが父の名が卿であったため固辞し太子右衛副率を除された。当時、隠士田遊巌を召して太子洗馬としたが、宮で全く匡輔することがなかった。儼は書を贈り責め(隠士としての高節を持ちながら唐虞の聖主に傲り、山林の逸気を養い遁世の情を守っていたはずが、朝廷から三顧の礼で迎えられ商山の客として不臣の礼をもって遇されているのに、皇太子の輔導という重責を負いながら一言も匡諫しないのはどうしたことか、と論じた)た。遊巌はついに答えられなかった。
- 儼はまもなく太常卿を検校した。文明中、義興県子に封ぜられ、右衛大将軍・太子詹事を歴任し老齢により致仕した。垂拱3年(687年)、家で卒した、時に年78。文集5巻がある。