呂諲
- 蒲州河東の人。行いを整え学問に励んだが幼くして孤貧、同郷の程楚賓の娘を娶り資援を受けて上京した。天宝初年、進士及第し寧陵尉、采訪使韋陟に才を認められ支使に、隴右・河西節度使哥舒翰のもとで度支判官を兼ねた。謹厳勤勉に職務にあたり信任された。
- 安禄山の乱で哥舒翰が敗れると、肅宗の即位した霊武に馳せ参じ御史中丞に抜擢された。両京回復後は陥賊した官の罪の軽重を裁定し法を厳しく適用したため君子に軽んじられた。
- 乾元二年(759年)三月、同中書門下平章事、七月母の喪で免官、十月起復し度支使を兼ね黄門侍郎。上元元年(760年)正月、同中書門下三品となったが喪服のまま拝礼を受け失礼を笑われた。
- 妻の父程楚賓や子の震を登用し、宦官馬上言と結んで賄賂で官職を授けるなど私情に流れたが、上言が処刑されると太子賓客に貶められた。七月、荊州大都督府長史・御史大夫・澧朗忠硤五州節度観察処置使として江陵に南都設置を提言、荊州を江陵府に改め永平軍を置いた。
- 前任の陳希昂が私兵をもって専権を振るっていたのを追及し伏甲で暗殺させ軍政を掌握した。李輔国と結んだ妖人申奉芝の不正を潭州刺史龐承鼎が摘発したのを助け、粛宗の怒りで判官厳郢が流罪となったが承鼎は雪冤され後に奉芝は敗死した。同僚李揆との対立でも揆を左遷に追い込んだ。
- 建卯月(762年)に病没し吏部尚書を追贈、謚は「肅」(部下は「忠肅」を求めたが博士独孤及の議で「肅」に決定)。江陵で三年間良吏と称され、没後郡人は祠を建てて祀った。