楊諲
- 華陰の人。高祖楊縉は陳の中書舎人、陳滅亡で江左から関中に移った。麟遊令のとき竇懐貞の理不尽な財産徴発命令を「人の冤罪を論じるのに官位の上下は関係ない」と拒否し評価された。韋皇后の年齢規定に基づく重複徴税にも異を唱えて減免を実現させ、殿中侍御史に抜擢された。
- 開元初年、侍御史。京兆尹崔日知の不正を御史大夫李傑と共に糾弾しようとした際、傑が日知に讒言されると玄宗の前で御史台の存続に関わる問題だと直言し、傑は留任、日知は左遷された。御史中丞・戸部侍郎を歴任し、宇文融の括戸策には理を尽くして単独反対したが容れられず華州刺史に出た。
- 開元十六年(728年)、国子祭酒として王迥質・尹子路・白履忠ら学徳ある者を学官に推挙。明経挙で『左伝』を軽視する風潮を憂い、帖試の弊害是正と『儀礼』『公羊』『穀梁』の重視を建言、明経に左氏・周礼等四経の通暁者は出身時に散官を免ずる制が定められた。大理卿ののち老病により辞職、開元二十三年(735年)左散騎常侍、まもなく卒し戸部尚書を追贈、謚は貞。
- 楊諲は『儀礼』の廃絶を嘆き、自家の冠婚喪祭を旧礼に基づいて執り行わせた。