高智周
- 高智周、常州晋陵の人。幼くして学を好み進士に挙げられた。累補して費県令となり丞・尉と俸銭を均分し、政化は大いに行われ、人吏は石を刻んでこれを頌した。まもなく秘書郎・弘文館直学士を授けられ『瑤山玉彩』『文館辞林』などの編纂に与った。三遷して蘭台大夫となった。当時孝敬(皇太子)が東宮にあり、智周は司文郎中賀凱・司経大夫王真儒らとともに儒学の縁で侍読に詔授された。総章元年(668年)、父母の葬儀のため帰郷を請い、親しい者に「進むを知って退くを知らないのは患いを招く道だ」と語り、病と称して職を去った。
- まもなく再び起用され寿州刺史を授けられ、政は寛恵を存し百姓はこれに安んじた。部内を巡るたびに必ず先に学官を召し諸生を見て講誦を試し経義と時政の得失を訪ね、その後に墾田・獄訟の事を問うた。咸亨2年(671年)、召されて正諫大夫を拝し検校礼部侍郎を兼ねた。まもなく黄門侍郎・同中書門下三品に遷り国史修纂を兼ね、まもなく御史大夫に転じたが、煩劇の任を固辞する表をたびたび上げ、高宗はその意を嘉して右散騎常侍を拝させた。また致仕を請い許された。永淳2年(683年)10月、家で卒した、時に年82、越州都督府を贈られた。
- 智周は若いころ郷人の蔣子慎と親しく、ともに人相見に赴くと「明公は位が人臣を極めるが子孫は微弱であろう。蔣侯の官禄は薄いが子孫は転じて盛んになろう」と言われた。子慎は後年、建安尉として卒したが、その子の繪が智周を訪ねた。智周は既に貴顕であったが「私はそなたの父と縁があり、そなたにもまた才がある」と言い、娘を娶らせた。永淳中、緱氏尉・鄭州司兵として卒した。
- 繪の子捷は進士に挙げられた。開元中、台省を歴任し湖・延二州刺史に至った。子の貴は揚州大都督を贈られた。
- 捷の子冽・渙はともに進士に及第した。冽は礼・吏・戸部の三侍郎、尚書左丞を歴任し、渙は天宝末に給事中、永泰の初め右散騎常侍となった。高氏は既に久しく衰えていたが、果たして相者の言葉通りとなった。当初、冽兄弟は父の喪に際し墓の側に廬し松柏千余株を植え、また同時に栄貴を得たことを人々はその友愛によるものと推した。
- 冽の子鏈、渙の子銖もまた進士に挙げられた。