崔知溫
- 崔知溫、許州鄢陵の人。祖の樞は司農卿、父の義真は陝州刺史。知溫は初め左千牛となった。麟徳中、累転して霊州都督府司馬となった。州界に渾・斛薛の部落1万余帳があり、しばしば居民を侵掠したため百姓はみな農業を廃し騎射を習って備えた。知溫は河北への移住を表請したが斛薛は移りたがらなかった。将軍契苾何力がこれを高宗に取り成し奏は一旦沙汰止みとなったが、知溫は前後15回上奏し、ついに従われ百姓はようやく耕獲に就くことができた。後に斛薛が入朝した際、州を通過するついでに謝して「以前、河北への移住を奏された時は実に怨みを持ちましたが、牧地は肥沃で水草も乏しくなく部落は日に豊かになり、初めて公の恩に浴しました」と言い、拝伏して去った。
- 知溫は四遷して蘭州刺史となった。党項3万余人が来て州城を寇したとき、城内の勝兵(戦える兵)は少なく人々は大いに懼れ為す術を知らなかった。知溫は城門を開いて賊を招き入れさせたが、賊は伏兵を疑って進もうとしなかった。まもなく将軍権善才が兵を率いて救援に至り党項の衆を大破した。善才はその降を機にことごとく坑に埋め後患を絶とうとしたが、知溫は「逆らわず奔る者を撃たないのは古人の善い戦い方だ。噍類(残る者)まで誅せば禍は後の代に及ぶ。また渓谷は険しく草木は幽蔚しており、万一変が生じれば後悔しても及ばない」と言い、善才はその計に同意した。また降口500人を分けて知溫に与えようとしたが、知溫は「先ほど安危の策を論じたのは公事であり、どうして私利を図ろうか」と固辞して受けなかった。党項の残衆はこれにより悉く来降した。
- 知溫は累遷して尚書左丞となり、黄門侍郎・同中書門下三品に転じ国史修纂を兼ねた。永隆2年(681年)7月、中書令に遷った。永淳3年(684年、実際は弘道元年)3月に卒した、時に年57、荊州大都督を贈られた。
知溫子 泰之
知溫少子 諤之
- 少子の諤之は神龍の初め、将作少匠となり張易之誅殺に預かった功により博陵県侯に封ぜられ実封200戸を賜った。開元の初め、累遷して少府監となった。
知溫兄 知悌