舊唐書卷一百八十五下 列傳第一百三十五下 姜師度

姜師度

  • 魏の人。明経挙。神龍初年、易州刺史・御史中丞・河北道監察兼支度営田使を歴任し、溝洫の利に通じた。薊門の北に漲水を溝とし奚・契丹の侵入に備え、魏武の旧渠に沿って海辺に平虜渠を開いて海運の危険を避けさせた。大理卿、景雲二年(711年)司農卿。
  • 開元初年、陜州刺史。太原倉の陸運の労を省くため地下道を掘り水路まで直結させ、費用を大幅に節減した。開元六年(718年)、蒲州が河中府になると河中尹として府寺を修めた。
  • 安邑塩池が涸れかけていたのを卒を動員して疏通し塩屯を置いて公私に利をもたらした。同州刺史では通霊陂の水を引き二千余頃の水田を開き、屯十余所で万を数える収穫を得、金紫光禄大夫、将作大匠に進んだ。
  • 開元中、左拾遺劉彤の建議で塩鉄の官を置く議が起こり、師度は戸部侍郎強循と御史中丞を摂して各道按察使と協議したが、反対が多く実現しなかった。
  • 開元十一年(723年)七十余歳で病没。溝洫を好んで各地を開拓し、成功も多かった一方で不利もあった。太史令傅孝忠の星占いと並べて「傅孝忠は天を仰ぎ見、姜師度は地を穿つ」と世に言われた。

強循

  • 鳳州の人。吏才で知られ大理卿に至った。

(付記:和逢堯という岐州岐山の人がおり、弁舌に長け、睿宗朝に突厥の默啜が公主を娶ろうとした際、御史中丞として使いし、金鞍の真贋を巡る難詰を機知で切り返し默啜を服させ、その子を入朝させた。功により戸部侍郎に抜擢されたが太平公主に与したため朗州司馬に左遷、開元中柘州刺史で卒した。)