舊唐書卷一百八十五下 列傳第一百三十五下 宋慶禮

宋慶禮

  • 洺州永年の人。明経に及第し衛県尉となる。則天朝、桓彦範の詔命で河北の要路遮断に参画し、大理評事・嶺南采訪使を歴任。崖州・振州など蛮地の紛争を自ら現地に赴いて鎮撫し、鎮兵五千を廃止させた。開元中、貝州刺史・河北支度営田使を兼ねた。
  • 営州都督府はもと柳城にあったが則天朝の都督趙文翙の失政で奚・契丹が反乱し陥落、以後幽州東二百里の漁陽城に移されていた。開元五年(717年)、奚・契丹が帰順すると玄宗は営州を旧地に戻そうとし、宋璟は反対したが慶礼は強く利点を説き、姜師度・邵宏らと築城を三十日で完成させた。御史中丞・検校営州都督となり屯田八十余所を開き、幽州・漁陽・淄青の民を招致、商胡の店舗も誘致して数年で倉廩は充実した。
  • 政治は清厳で人吏は畏れたが、辺境に落とし穴や槍を仕掛けるなど功役を好み、議者は不要と嗤った。開元七年(719年)に卒し工部尚書を追贈。太常博士張星は謚に「専」を提案したが、礼部員外郎張九齢は営州経営の功を長文で弁護し反駁した。慶礼の兄の子辞玉が冤を訴え、結局謚は「敬」となった。