舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 韋仁壽

序説

  • 漢の宣帝は「政治を公平にし訴訟を減らし、民に愁嘆なからしめ、我とともに治めるのはただ良二千石(良吏)のみである」と言った。それゆえ漢代の任官は外官を重んじ内官を軽んじ、郎官が百里(県)の宰となり郡守が入って三公となった。世祖(光武帝)中興の際は特に吏術を重んじ、名儒を慎重に選んで輔相とし、功臣に吏事の責を負わせなかった。政績が優れれば秩を増し金を賜り、績が負なら左校(懲役)に論じ輸した。選任の道は漢代がとりわけ優れていた。
  • 隋の政治は綱紀を失い彜倫(人の常道)は紊れた。天子は巡遊と征伐に務め、僚属は側媚を逞しくして恩権を窃んだ。当時、朝廷に正しい人物はなく地方にも廉吏はなかった。州郡にまたがる者はみな豺虎の流であり、紫綬黄金を佩びる者はことごとく爪牙の毒を奮った。ついに土崩して救われず、瞬く間に滅んだ。
  • 武徳の初め、なお隋の余風は絶えなかったが、太宗皇帝は乱の跡を削平し汚れた風を洗い、ただ稼穡(農事)の艱難を思い珠玉を宝としなかった。これにより人は恥を知り俗は貞修を尚び、太平の基はこの道によって成った。天后・玄宗の代、貞元・長慶の間にも、卿士大夫が方州に臨み、あるいは御史・郎官が畿甸を宰するなど古道を行おうとしたが、行い得ないことを病んだ。
  • 武徳以来300年、その間の嶽牧(地方長官)に循良の吏が乏しくなかった。今、その政術が聞こえた者を録し伝を立てる。吏の師表を表し不恪な者を戒めることを願うものである。

韋仁壽

  • 韋仁壽、雍州万年の人。大業末、蜀郡司法書佐となり獄を断ずること平恕で、罪を得た者もみな「韋君の裁きなら死んでも恨みはない」と言った。高祖が関に入ると使いを遣わし巴蜀を定めさせ、使者は制を承けて仁壽を巂州都督府長史に拝させた。当時、南寧州が内附しており朝廷が使いを遣わすたびに賄賂を受け取っていたため辺人は苦しみ叛く者も出ていた。高祖は仁壽が日ごろから能名があることから南寧州都督を検校させ、政を越巂で聴かせつつ毎年一度その地に赴いて慰撫させた。
  • 仁壽は兵500人を率い西洱河に至り、制を承けて8州17県を置き、その豪帥を牧宰に任じ、法令は清粛で人は喜んだ。還ろうとすると酋長は号泣し「天子は公を遣わし南寧を鎮撫させたのに、なぜすぐに去るのか」と言った。仁壽は城池が未整備であることを口実にすると、酋長たちは互いに城を築き廨舎を建て、旬日で完成させた。仁壽は「私は詔を奉じて巡撫を命じられただけで、あえて留まることはできない」と言い、帰ろうとすると蛮夷の父老は涙を揮って見送った。子弟を随行させ朝に入り方物を貢がせ、高祖は大いに悦んだ。仁壽は再び南寧に移り住み兵で鎮守することを請い、詔で特に便宜に従うことが許され益州に兵を給し送らせた。刺史竇軌はその功を害しようとし、蜀中の山獠反叛を口実に遠征を先延ばしにし、時機を逸して発遣しなかった。1年余りを経て、仁壽は病で卒した。