舊唐書卷一百八十三 列傳第一百三十三 長孫敞

長孫氏の栄達と長孫詮の悲劇

  • 長孫敞は文徳順聖皇后(太宗后)の叔父である。隋で左衛郎将を務め、煬帝が江都に幸した際は京城の禁苑を守った。義旗が関に入ると子弟を率いて新豊に迎え、京城平定の功で将作少監に除せられた。杞州刺史に出たが貞観初年、贓罪に坐して免ぜられた。太宗は后の親族として絹を内給し私費に充てさせた。まもなく宗正少卿を拝し、致仕にあたり金紫光禄大夫を加えられ平原郡公に累封された。卒して幽州都督を贈られ謚は良、昭陵に陪葬された。
  • 敞の従父弟操は周の大司徒・薛国公覧の子である。武徳中、陝東道行台金部郎中となり陝州刺史に出た。州から水を引いて城に入れ井戸に代え、百姓は今も利を得ている。貞観中、洺州刺史・益州揚州二都督府長史を歴任しいずれも善政を挙げた。二十三年、子の詮が太宗の娘新城公主を娶ったことにより岐州刺史を拝した。永徽初年、金紫光禄大夫を加え楽寿男の爵を賜った。まもなく卒し吏部尚書・并州都督を贈られ謚は安。
  • 子の詮は尚書奉御の官に至った。詮は侍中韓瑗の妻の弟である。瑗が罪を得た際、詮も連座して死一等を減じられ巂州に配流されたが、流所に着くと県令が上意を忖度して杖殺した。
  • 詮の甥に趙持満という者がおり、書に長じ弓術に優れ猛獣を素手で捕らえ奔馬に追いつく力があり、親仁愛衆で交友が広く京師では貴賤を問わず慕われた。初め涼州長史となり野馬を追って背後から射ればことごとく胸腋を貫き辺の人々は深く畏服した。許敬宗は持満の再起を恐れ詮・長孫無忌と共に謀反したと誣告し、拷問しても最後まで供述を変えず「身は殺されても言は奪えない」と述べたが、獄吏がついに勝手に自白書を作って処刑した。