舊唐書卷一百八十二 列傳第一百三十二 諸葛爽

河陽掌握

  • 諸葛爽は青州博昌の人。県の伍伯に役せられ令に鞭打たれ役を棄て、里の謳歌で生計を立てた。龐勛の乱が起きると徐州の卒となり軍功を重ねて小校に至った。官軍が徐州を討ち龐勛が窮すると百余人を率いて泗州守将陽群とともに帰順し、汝州防禦使に累授された。李琢が招討使として雲州の沙陀を討った際、爽を副とした。広明元年、賊が京師を陥れると詔により代北行営兵馬を率いて関中の難に赴いたが、潼関が破れ車駕が出幸すると爽は賊に降った。黄巣は爽を河陽節度使とした。賊が敗れると再び帰国を上表し検校司徒に進んだ。
  • 魏博の韓簡の軍勢が盛んな頃、中和元年四月、魏人が河陽を攻め修武で爽の軍を大敗させ、爽は城を捨てて逃げた。簡は大将に河陽を守らせ鄆州の曹全晸討伐に出た。十月、孟州の人が再び爽を誘い、爽は金商から千人を率いて再び河陽に入り、魏人を犒って趙文㺹に率いさせ去らせた。十一月、爽が新郷を攻めると簡が鄆から逆戦し獲嘉の西北に陣した。簡は魏人を率いて関輔に入り黄巣の残党を除こうとする図王の志を抱いていたが三軍は諫めても従わなかった。偏将楽彦禎は動揺した軍心につけこみ、牙軍は魏州に奔り帰った。爽の軍はこれに乗じ、簡の郷兵八万は大敗し逃げ惑い清水も流れが止まるほどであった。翌年正月、簡は牙軍に殺され、爽の軍は勢いを盛り返した。
  • 黄巣が敗れる頃、爽は再び帰国した。爽は群盗より身を起こしたが貴顕の後は治政に長け、法令は清明で人々の怨みもなく、人士はこれを称えた。光啓二年、爽は卒し、帳中の将劉経・張言が爽の子仲方を孟州の帥に立てたが、まもなく蔡賊孫儒が攻め城は賊に陥り仲方は汴に帰し、儒が孟州を占拠した。