舊唐書卷一百八十二 列傳第一百三十二 王重榮

河中掌握と黄巣討伐

  • 王重榮は河中の人。父王縦は塩州刺史で咸通中に辺功があった。重榮は父の廕により軍校に補せられ、兄重盈とともに驍雄と号され軍中に名を知られた。広明初年、重榮は河中馬歩軍都虞候となった。黄巣賊が長安を占拠すると蒲州帥李都は抗しきれず賊に称臣し、賊は重榮に節度副使を偽授した。河中は京師に近く賊の徴求が絶えず軍府は供給に疲弊し、重榮は李都に「詭計で賊に附いて難を凌いできたが、今は軍府の蓄えを目当てに再び徴発しに来ており、賊は我らを危うくしようとしている。橋道を絶ち城を固めるべきだ」と説いた。李都は兵力の弱さを恐れたが節鉞を重榮に委ねて行在に去り、重榮は留後となって賊の使者を斬り近隣の藩鎮に援を求めた。まもなく賊将朱温の水軍が同州から、黄鄴の兵が華陰から、数万で攻めてきたが重榮は士衆を励まし大敗させた。武器を鹵獲し軍声はいよいよ振るい、朝廷は節鉞を授け検校司空とした。中和元年夏のことである。
  • まもなく忠武監軍楊復光が陳・蔡の兵一万を率いて重榮と合流した。賊将李祥が守る華州を合勢して攻め李祥を捕らえて晒した。同州を失った賊が焦って荒れる中、黄巣自ら精兵数万を率いて梁田坡に至った。重榮は華陰の南に、楊復光は渭北におり挟撃して不意を突き賊将趙璋を捕らえる大勝を得た。黄巣は流れ矢を受けて退いたが、重榮軍も半数近くを失い、賊の再来を深く憂えた重榮に楊復光は「雁門の李僕射(李克用)は我が家と代々親交があり、援軍を得られれば事は成就する」と説き、詔を伝え兵を求めた。翌年、李克用が到着し黄巣を大破して京城を回復した。義挙を最初に唱えた功は重榮が第一とされ、京師平定後、検校太尉・同平章事・瑯邪郡王に至った。
  • 光啓元年、僖宗が京に還ると、喪乱の後で国庫が空虚であったため観軍容使田令孜は安邑・解県の塩池税を省司の直属として財源に充てるよう奏した。従来、河中節度は塩税の徴収使を兼ね毎年定額を省に納めていたため重榮は再三異議を唱えたが令孜は許さず、重榮を定州節度に移す奏を上げた。重榮が詔に従わないと令孜は禁軍で沙苑に攻めたが重榮に撃退された。十二月、令孜は天子を挟んで宝鶏に出幸させたが太原がこれを聞き重榮とともに京師に入って迎え駕した。令孜はさらに恐れ天子を山南に連れ去った。朱玫が襄王を擁立し称制すると重榮はこれに従わず、太原の軍と河西で会し興復を図った。翌年、王行瑜が朱玫を殺し僖宗が復位したのは重榮の忠力によるところが大きかった。

厳法による死と後継争い

  • 重榮は用法が厳しく晩年ますます甚だしかった。部下の常行儒が処罰されたことを深く恨み、光啓三年六月、行儒が兵を率いて府第を攻め重榮は城外の別荘に逃れたが翌朝殺害された。行儒は重盈を帥に推したが、重盈は行儒とその党を誅し軍民を安んじた。
  • 乾寧初年、重盈が卒すると軍府は行軍司馬王珂を留後に推した。重盈の子珙は陝帥、瑤は絳州刺史であった。珂は重榮の兄重簡の子で重榮の養子となっていたため、瑶・珙と珂が蒲州帥の座を争った。瑶・珙は朝廷に上表し朱温にも「珂は我らの兄弟ではなく家の召使い、幼名は蟲児で継嗣たりえない」と訴えた。珂は「亡父には興復の功があった」と上表し太原に援を求め、太原は朝廷に推薦した。珙は王行瑜・李茂貞・韓建と厚く結び三鎮相互に推薦しあった。昭宗は「太原には重榮の再興の功があり既にその奏を許した」と諭したが、翌年五月、茂貞ら三人が兵を率いて入朝し時政を害し河中を珙に授けるよう請うた。珙・瑶は連兵して河中を攻めたが李克用が怒って三鎮討伐に出師、瑶・珙の兵は退き克用は絳州を抜いて瑶を斬り渭北に駐屯した。天子は珂を河中節度とし供軍糧料使も兼ねさせた。王行瑜誅殺後、克用は娘を珂に嫁がせた。珂は太原に赴き李嗣昭の援軍を得て珙を攻め珙は連戦連敗した。珙は残忍な性質で罪ある者を斬首して座前に置き談笑して意に介さず部下は皆苦しみ、勢力の衰えとともに離反者が続出した。光化二年六月、部将李璠が珙を殺し留後を自称した。
  • 光化末年、朱温が鎮・定を降し関輔を図ろうとした頃、劉季述の廃立事件で京師が動揺すると、崔胤は密かに汴に援軍を乞い反正を図った。朱温は将張存敬・侯言に「王珂は太原の勢を恃み隣藩を侮り骨肉相残し驕り高ぶっている、これを縛れ」と命じ、存敬らは数万の兵で黄河を渡り含山から不意を突き、天復元年正月、晋・絳を攻めた。珂の将絳州刺史陶建釗、晋州刺史張漢瑜は備えなく開門降伏し、朱温は別将何絪に晋州を守らせ援路を扼した。二月、存敬の大軍が河中に迫り、珂は太原に急を告げたが、晋・絳が要衝を扼されて援軍を進められず、珂の妻は太原に「賊勢が迫り朝夕にも捕虜となる、なぜ救わないのか」と訴えたが克用は「賊が阻んでおり衆寡敵せず、救えば共倒れになる。王郎とともに朝廷に帰れ」と答えるのみであった。珂は策が尽き京師への帰還を謀り、李茂貞にも援を求めたが答えはなかった。
  • 珂は勢い窮まり黄河を渡って京師に帰ろうとしたが河橋が壊れ氷が塞いで渡れず、船を集めて渡河の準備を進める中、牙将劉訓は「明朝に三軍に情理を説き、従う者は半ばに及ぼう。然る後に船に乗り闕に赴けば先に渡れる。さもなくば諸将を召し款状を作り賊軍を緩め時を稼ぐのが上策」と説いた。珂はこれに従い城に登り張存敬に「私は汴王と代々家の縁がある、退いていただきたい。汴王が来られたら命に従う」と告げると存敬はその日のうちに退いた。
  • 三月、朱温が洛陽から到着し、まず重榮の墓で哭泣し悲しみに耐えず祭文を捧げると蒲の人々は感じ入った。珂は面縛牽羊して降伏の礼を取ろうとしたが、温は「太師阿舅の恩をどうして忘れようか。郎君が亡国の礼で会おうとすれば黄泉の重榮に何と言えばよいのか」と答え、珂を路上に迎え手を取って涙を流し轡を並べて入城した。
  • 半月ののち存敬が河中を守り、珂は一家を挙げて汴に移った。後に朱温は珂を入朝させ、華州の伝舎で人を遣わして殺害した。重榮が河中の帥となってから珂に至るまで二十年であった。