舊唐書卷一百八十一 列傳第一百三十一 羅弘信

帥位獲得の経緯

  • 羅弘信、字は徳孚、魏州貴郷の人。曾祖秀、祖珍、父讓はいずれも本州の軍校。弘信は若くして戎役に従い節度使韓簡・樂彥禎に仕えた。光啓末年、彥禎の子從訓が牙軍に忌まれ外に出居した際、軍衆は彥禎を廃し趙文㺹に軍州事を主らせようとしたが不便とされ、弘信が帥に推された。先に隣人が弘信に「夜に白鬚の翁に会い『君はやがて土地の主となる』と告げられた」と語ったことがあり、弘信は密かに異とした。文㺹を廃した際、軍人が「誰が節度使になりたいか」と声を上げると弘信は「白鬚の翁が早くに我に命じた」と応じ、衆は環視して「よかろう」と認め立てられた。僖宗はこれを聞き、文徳元年四月、工部尚書・権知節度留後を加える詔を下し、七月、金紫光禄大夫・検校尚書右僕射・魏博節度観察処置等使を加えた。龍紀中、検校司空・同平章事を加え豫章郡公に封じた。

太原との抗争と朱全忠との結び

  • 乾寧中、朱全忠が兗鄆を急襲すると朱瑄は太原に援を求めた。太原軍は道を魏に借り、大将李存信を莘県に駐屯させたが、存信は軍を統率できず魏の牧草地を侵し弘信はこれを不満とした。全忠が「太原は河朔を呑む志を持っており、いずれ道を戻せば貴道が憂うことになろう」と説くと、弘信は汴に好誼を通じ兵三万を出して存信を撃破した。太原は怒って魏を攻め観音門外に陣を張ったが、汴将葛従周がこれを援け洹水に駐屯した。李克用の子落落は鉄林軍使として従周に捕らえられ太原軍は退却した。以後、太原の軍は毎年相・魏を侵し魏人はこれを患いとした。
  • 朱全忠は兗鄆に事を構える傍ら弘信の離反を恐れ、毎年時節ごとに贈物を送り卑辞厚礼で応えた。全忠は魏の使者に対し北面して拝礼を受け「六兄は予より一倍以上年長、兄弟の国であり常鄰の礼で遇すべきではない」と言い、弘信はこれを厚遇と受け止め心を許した。弘信は検校太師・守侍中・臨清王に累官し、光化元年九月に卒した。享年六十三、太師を贈られ北平王を追封され謚は荘粛。子威。

羅弘信の子 威――牙軍粛清と滅亡への道

  • 威、字は端己。文徳初年、左散騎常侍・天雄軍節度副使を授かった。龍紀から乾寧までの十年間、官爵を累加された。弘信没後、留後として父の位を継ぎ朝廷もこれに従った。天復末年、検校太傅・兼侍中・長沙王に累加、天祐初年、検校太尉・守侍中を授かり鄴王に進封され「忠勤宣力致理功臣」の号を賜った。
  • 魏の牙中軍は至徳中、田承嗣が相・魏・澶・博・衛・貝の六州を占拠した際、軍中の子弟を募って部下に置き号としたもので、代々豊かな給賜を受けて驕り、年月を経て父子相継ぎ親党が固く結束していた。凶暴な者は強買豪奪し法令を犯しても長吏は禁じ得ず、主帥の交替も児戯のようで、史憲誠・何進滔・韓君雄・楽彦禎はいずれも彼らに立てられた者であった。優遇が少しでも意に沿わなければ一族を皆殺しにされることもあった。威は過去の弊害を懲らしめ、賄賂で懐柔しつつ内心では憎んでいた。
  • 威が世を嗣いだ翌年正月、幽州の劉仁恭が十万の兵を擁し河朔の乱を謀り、貝州に進み魏に攻め入った。威は汴に援を求め、朱全忠は将李思安を洹水に駐屯させ、葛従周は邢・洺から軍を魏に入れた。燕将劉守文・単可及が内黄で汴軍を攻めるも思安が迎え撃って大敗させ、追撃した従周が合流して燕軍を覆し首三万を斬った。三年、威は汴軍を率いて滄州を攻め報いた。以後、威は全忠の援助を恩と感じ従属を深めた。
  • 天祐二年七月十三日夜、牙軍の裨校李公佺が乱を起こし威はかろうじて身を免れた。公佺は滄州に逃れた。威はますます恐れ、全忠に援を求め密かに滅ぼす謀を巡らせた。全忠は李思安に魏博軍と合流させ再び滄州を攻めさせた。全忠の娘は威の子廷規に嫁いでいたが先に卒しており、全忠は長直軍校馬嗣勳に精兵千人を選ばせ、輿の中に兵甲を隠して魏に入らせ娘の葬儀の助けと称した。三年正月五日、嗣勳が到着し、全忠自ら大軍を率いて渡河し滄景への行営を視察すると称した。威は迎えに出ようとしたが、その隙に全忠の帳下の精鋭を城内に入れ挟み撃ちにする計画であった。牙軍が疑いを強め出発を拒むと威は事の露見を恐れて慰撫した。同月十四日夜、廝養百十人余りを率い嗣勳と合流して牙軍を攻めた。牙城に宿していた千人はほぼ夜明けまでに殺され、八千家の一族が滅ぼされた。滄州を攻めていた魏軍は歴亭でこの変事を聞き、将史仁遇がこれをまとめて高唐に籠もった。六州はすべて敵となり数ヶ月かけて平定した。威は梁に仕えて数年後、享年三十四で卒し、守太師・兼中書令に至り、尚書令を贈られ謚は貞壮。
  • 威は明敏で吏道に通じ、儒術を尊び文人を招き蔵書は万巻に至った。花朝月夕には賓客と詩を詠み情趣に富んだ。銭塘の羅隠は当世の詩名があり自ら「江東生」と号したが、威は使者を送り宗姓を通じて叔父と仰ぎ、隠も詩を集めて贈った。威はその作を酷愛し自らの著作を《偷江東集》五巻と名付け、今なお鄴の人士に諷詠されている。

史論

  • 史臣曰く:魏・鎮・燕の三鎮は久しく朝廷が制することができなかった。兵は強く地は広く、あるいは連衡しあるいは対立した。爵命は朝廷から仮に授けられても、群臣は自ら元帥を選んだ。史憲誠らの五家は、いずれも初めはこの仕組みによって地位を得たが、後にもまたこの仕組みによって位を失った。権により奪い仁を以て守ることを知らなかったからである。もし善く継いだ者を挙げれば史氏・羅氏の子(孝章・威)にその例があり、他は取るに足らない。

  • 賛に曰く:逆らって取り、順って守るというのは古よりある道理である。もし逆らったまま守るならば、滅亡は必ず随う。史・何・韓・楽の四氏は代々盛衰を繰り返した。これを鑑として心に刻むべきである。