舊唐書卷一百八十 列傳第一百三十 張仲武

節度掌握と回鶻撃破

  • 張仲武は范陽の人。若くして《左氏春秋》を学び、筆を投じて薊北雄武軍使となった。会昌初年、陳行泰が節度使史元忠を殺し留後を称したが、行泰も次将張絳に殺され、三軍が上表して符節下賜を求めた。仲武は軍吏呉仲舒を遣わし本軍による叛徒討伐を願い出た。上が宰相にこれを問うと、呉仲舒は「張絳・陳行泰はいずれも遊客で軍心が服さない。仲武は軍中の旧将張光朝の子で年五十余、儒書に通じ戎事に老練で忠義の性を抱き朝廷に帰心している」と述べた。李徳裕は「陳行泰・張絳はいずれも大将に上奏させて節旄を求めたので許すべきでないが、仲武は上表して誠意を示したので登用に名分が立つ」と奏し、許可された。兵馬留後に任じ、撫王紘を遙領節度とし、後に節度副大使・知節度事、検校工部尚書・幽州大都督府長史・兼御史大夫・蘭陵郡王に改めた。まもなく回鶻が辺を侵した。
  • 回鶻の将勒那頡啜が赤心宰相一族七千帳を擁して東の漁陽に迫った際、仲武は弟仲至と裨将遊奉寰・王如清らを遣わし精兵三万で大破した。前後して侯王貴族千余人を捕らえ三万人を降し、牛馬・駱駝・旗纛・罽幕を数え切れぬほど獲得した。従事李周瞳・牙門将国従が相次いで戦捷を献じ、検校兵部尚書・東面招撫回鶻使を加えられた。先に奚・契丹には回鶻の監護使が置かれ歳貢を督し漢の間諜となっていたが、仲武は裨将石公緒らを遣わし両部を諭し八百余人を誅した。また回鶻が偽って結好を結ぼうと遣わした宣門将軍ら四十七人の陰謀を密かに探り知り、その使を引き留めて師期を遅らせ、人馬が病死するに任せて遂に遣わさなかった。回鶻烏介可汗は敗れた後、辺に近づく勇気なく康居に依り、余種を挙げて黒車子部に寄寓した。
  • 仲武はこうして威を北狄に振るい、薊北に《紀聖功銘》を建てることを願い出、李徳裕に文を作らせた。銘文は太和・開成年間の回鶻の侵入とその衰退、仲武とその弟仲至率いる幽州軍の武功、可汗の追撃と単于の捕縛、辺境平定と朝廷への功を称える内容であった。
  • 仲武は官が司徒・中書門下平章事に至り、大中年間に卒し謚は荘。

張仲武の子 直方――放縦と最期

  • 直方は幽州節度副使として父の位を継いだが、多く不法を行い部下に図られることを恐れた。大中三年冬、遊猟を口実に朝廷に奔り金吾将軍を授かった。性は乱暴で豪奪を行い、罪により柳州司馬に貶され、十一年、右驍衛将軍・東都分司に遷り、咸通中、羽林統軍に至った。中和年間、黄巣が長安に迫った際、公卿が多くその豪勢を恃んで邸内に隠れる中、直方は亡命者を招いて黄巣を襲おうと謀ったが密告され、兵に囲まれ殺害された。