舊唐書卷一百八十 列傳第一百三十 楊志誠

李載義追放から失脚まで

  • 楊志誠は太和五年、幽州後院副兵馬使として李載義に仕えた。朝廷が載義に徳政碑文を賜り、載義が中使を招いて撃鞠を行った際、志誠もこれに加わり球場で叫呼し謀乱を起こした。載義は易州に逃れ、志誠は本道馬歩都知兵馬使となった。
  • 文宗はこれを聞いて驚き宰相を急ぎ召した。牛僧孺は「安史の乱以来、范陽は朝廷の実効支配になく、劉総が土地を朝廷に帰した時も范陽から一尺の布・一斗の粟も上供されなかった。今日の志誠の得た地位は先の載義の得た地位と同じ。范陽は北の突厥を防ぐ役割があるので、志誠に節鉞を与え撫用すればよい」と説き、上は大いに喜んだ。嘉王運を遙領節度とし、志誠を節度観察留後・検校左散騎常侍・兼幽州左司馬とし、後に検校工部尚書・節度副大使・知節度事に改めた。
  • 七年、検校吏部尚書に転じる詔が下ると、進奏官徐迪が宰相に「軍中は尚書から僕射への昇進しか栄誉と認めず、工部から吏部への転任を美事と思わない。軍士は新恩に飾り立てて待つのに再び尚書とあっては軍中が恥じ、中使が行っても出られぬ恐れがある」と訴えた。使者が到着すると志誠は僕射を得られなかったことに怒り、三軍にも怨言があり、春衣使魏寶義・焦奉鸞・尹士恭らを抑留した。志誠は将王文穎を遣わし謝恩と官職辞退を申し出、賜った官告批答を受けずに帰した。朝廷は裴度の言を容れて事を穏便に収め、再び使者を遣わし尚書右僕射を加えた。
  • 八年、三軍に逐われ史元忠が立った。元忠は志誠が作らせた鸞鳳日月の刺繍を施した袞龍衣二副と被服・鞍韉を朝廷に進上し、志誠は御史台の取調べを受けて嶺南に流される途中、商州で殺された。
  • 史元忠は志誠追放後、通王淳を遙領節度とし、自身は左散騎常侍・幽州大都督府左司馬・知府事・節度留後となり、翌年検校工部尚書・節度副大使・知節度事に転じたが、後に偏将陳行泰に殺された。