舊唐書卷一百七十八 列傳第一百二十八 張裼

出自と交友

  • 張裼、字は公表、河間の人。父の君卿は元和中に進士に挙げられ詞学で知られ累く郡守を歴任した。裼は会昌四年に進士第に登り寿州防禦判官から出仕した。于琮が布衣であった頃、寿春に客遊したが郡守は厚遇しなかった。裼は琮が衣冠の子弟であることから特に礼をもって遇した。琮が別れる際、「私は宿の主人に五十千を払ったが郡将の恵みはその数に及ばなかった、どうしたものか」と裼に述べた。裼は当時母を奉養しており家は貧しかったが折よく俸絹五十匹を得たばかりでこれをすべて琮に贈り、「他日出処窮達に関わらず互いに助け合おう」と約した。裼は累く太原掌書記に招かれた。大中朝、琮が翰林学士となりまもなく宰輔に登り度支を判じた。琮は裼を司勲員外郎・判度支に召した。まもなく翰林学士に用い郎中知制誥に転じ中書舎人・戸部侍郎・学士承旨を拝した。咸通末、琮が韋保衡に讒言され譴逐されると、裼も連座し封州司馬に貶された。保衡が誅されると琮の冤は雪がれた。裼は量移され入朝して太子賓客となり吏部侍郎・京兆尹に遷った。乾符三年、華州刺史に出た。その年冬、検校吏部尚書・鄆州刺史・天平軍節度観察等使となった。四年、鎮にて卒した、時に年六十四。子は文蔚・済美・貽憲。

子孫

  • 文蔚は乾符二年に進士第に登り累く使府を佐した。龍紀初、入朝して尚書郎となった。乾寧中、祠部郎中知制誥として正式に中書舎人を拝し紫を賜った。崔胤が朝政を専らにした際、蔚と同年の進士でとりわけ親しく、翰林学士・戸部侍郎に用い兵部に転じた。昭宗の洛陽遷都に従った。輝王(哀帝)の時代、中書侍郎・平章事を拝した。梁に入り卒した。
  • 済美・貽憲は相次いで進士第に登った。貽憲は覆試で落籍し戸部巡官・集賢校理となった。