出自と経歴
- 楊虞卿、字は師皋、虢州弘農の人。祖父は燕客。父の寧は貞元中に長安尉であった。若くして隠遁の志があり処士として朝に召された。弁が立ち公卿の間を悠々と交わった。竇参にとりわけ重んじられたが参が貶されると出世は叶わず卒した。
- 虞卿は元和五年に進士に及第し、さらに博学宏詞科に応じた。元和末、累官して監察御史に至った。穆宗が即位当初、政道を修めず遊興に度がなかったため、虞卿は上疏して諫めた。
虞卿の諫言
- 鳶烏(猛禽)が害を受ければ仁鳥は去り、誹謗を誅さなければ良言が進むと述べ、詔旨で愚誠を陳べるよう促されたため誅を避けず狂瞽の言を献じると前置きした。堯・舜が天命を受けた際は天下を憂いとし位を楽しみとしなかったこと、北の異民族がなお憂い西戎もまだ服さず両河の傷跡もまだ癒えず五嶺の妖氛もまだ解けず民の疾苦が尽きず朝廷の制度も修まらず辺境の備蓄がたびたび空になり国用もなお乏しいこと、これでは決して高枕安臥できないと述べた。
- 陛下が万宇に初めて臨み天下を憂う志があったのなら、日々輔臣公卿百執事を延いて凝旒(皇帝の姿勢)で問い膝を突き合わせて求め、四方内外にこれを見せるべきだと述べた。聴政以来六十日で延英を八回開いても数人の大臣だけが龍顔を仰ぎ聖問を承っているだけで、他の侍従詔誥の臣は共に入って共に出るだけでは政事を知り得ないと述べた。諫臣が朝廷に満ちていても忠言が聖聴に届いていないことを恥じるとし、これは主の恩がまだ疎く衆正の道が開かれていないからだと述べた。
- 公卿大臣は朝夕接見し道を論じ従容として賜与を受けるべきで、そうすれば君臣の情が通じ理道が備わると述べた。今宰相以下四五人だけが時に僅かな時間侍坐し天威に近づいても、鞠躬して身を屈め旨に応じるだけで往来がない、これは君が尊すぎ臣が卑しすぎるためだと述べた。公卿以下は清職を歴任していても天の眷顧を承り下問に応える機会を得ず正路を塞ぎ安逸を偸んでいると述べた。陛下は五帝のように神聖であっても臣下がその清光を望めないのであれば、あまねく顧問し気色を恵み手足が相輔けるようにし君臣の意思を明らかにすべきだと述べた。陛下が理を公卿に求め公卿が理を臣輩に求めれば、自然に上下が孜孜と問い合い忠を進めることが利を趨るように政を論じることが冤を訴えるようになるはずで、そうすれば過失が聞こえず升平に至らないことはないと述べた。
- 古来帝王は危うきにあって安を思う心では変わらないが、安きにあって危を慮る心は同じでないため、皆が聖帝明王となれるわけではないと結んだ。自らは小臣で疏賤な身でありこれを論ずるべきではないが、栄を貪り禄を偸んで聖朝に背くには忍びないとし、陛下に図ってほしいと述べた。
- 帝はこの言葉を深く称えた。まもなく西北の辺境に奉使させ戍卒を犒賞させ、侍御史に遷り、さらに礼部員外郎・史館修撰に転じた。長慶四年八月、吏部員外郎に改められた。
南曹の贓罪事件
- 太和二年、南曹の令史の李幹ら六人が偽の告身を作り符を偽造して官を売り、赴任させた者六十五人から一万六千七百三十貫を受け取っていた事件が発覚した。虞卿はこの偽状を得て幹らを捕らえ御史台に移して鞫劾した。幹は六人で二千貫を集め虞卿の庁典の温亮に贈り偽濫の事跡を発覚させないよう求めたと供述した。詔により給事中の厳休復、中書舎人の高鉞、左丞の韋景休が三司で推案したが、温亮は逃亡した。幹らが処刑された後、虞卿は部下の監督が不十分だったとして現任を停められた。
京兆尹としての権勢
- 李宗閔・牛僧孺が輔政すると左司郎中として起用された。五年六月、諫議大夫を拝し弘文館学士を充て院事を判じた。六年、給事中に転じ、七年、宗閔が罷相し李徳裕が知政事となると常州刺史に出された。
- 虞卿は性が柔佞で権幸に阿附して奸利を得ることに長けていた。毎年の銓曹貢部で挙選人のために奔走し科第を取り員闕を占め望むところを得させないことはなかった。昇沈取捨はその唇吻一つで決まった。李宗閔は骨肉のように虞卿を扱い朋比唱和に長けたため当時「党魁」と称された。八年、宗閔が再び入相すると、まもなく工部侍郎として召された。九年四月、京兆尹を拝した。
鄭注誣告事件と最期
- その年六月、京師で「鄭注が上(帝)のために金丹を合成するのに小児の心肝が必要で密かに小児を数知れず捕らえている」との訛言が流れた。民間で互いに言い合い小児を厳重に隠すようになり街市は騒然となった。上はこれを聞いて不快であり、鄭注は大いに不安であった。御史大夫の李固言は元来虞卿の朋党を嫌っており、「昨日この由来を突き詰めて調べたところ、この噂は京兆尹の従人から出て都下に広まったものです」と奏した。上は怒り虞卿を獄に下すよう命じた。虞卿の弟の漢公と子の知進ら八人は自ら獄に繋がれ鼓を打って冤を訴え、詔により虞卿は私第に帰された。翌日、虔州司馬に貶され、さらに虔州司戸に貶され、貶所で卒した。
- 子の知進・知退・堪、弟の漢公はいずれも進士に及第した。知退は都官・戸部の二郎中を歴任し、堪は庫部・吏部の二員外郎を務めた。
虞卿弟 漢公
- 漢公は太和八年に進士に及第しさらに書判抜萃にも及第し、李絳の興元従事から出仕した。絳が害に遭った際、漢公は逃げて難を免れた。累進して戸部郎中・史館修撰に至った。太和七年、司封郎中に遷った。
- 漢公の子の範・籌はいずれも進士に及第し累く使府に招かれた。
虞卿從兄 汝士
- 虞卿の従兄の汝士、字は慕巣。元和四年に進士に及第しさらに博学宏詞科に登り累く使府に招かれた。長慶元年、右補闕となった。弟の殷士の貢挙が覆落されたことに連座し開江令に貶された。入朝して戸部員外となり再遷して職方郎中となった。太和三年七月、本官のまま知制誥となった。当時李宗閔・牛僧孺が輔政し汝士を厚く遇した。まもなく正式に中書舎人を拝し工部侍郎に改められた。八年、同州刺史に出た。九年九月、入朝して戸部侍郎となり、開成元年七月、兵部侍郎に転じた。その年十二月、検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使となった。当時同族の嗣復が西川に鎮していたため兄弟が対して節制を治めることになり当時の人々はこれを栄誉とした。四年九月、入朝して吏部侍郎となり位は尚書に至り卒した。
- 子の知温・知遠・知権はいずれも進士に及第した。
汝士子 知溫
- 知温は累官して礼部郎中知制誥に至り、入朝して翰林学士・戸部侍郎となり左丞に転じた。河南尹・陜虢観察使に出、検校兵部尚書・襄州刺史・山南東道節度使に遷った。
知溫弟 知至
- 知温の弟の知至は累官して比部郎中知制誥に至った。旧上司の劉瞻が罷相したことに連座し貶官された。知至も瓊州司馬に貶された。入朝して諫議大夫となり累進して京兆尹・工部侍郎に至った。知温・知至はいずれも位が列曹尚書に至った。
汝士弟 魯士
- 汝士の弟の魯士、字は宗尹、もとの名は殷士。長慶元年、進士に及第したが、その年、翰林で覆試の詔が下り、殷士は鄭朗らと共に覆落され、これにより魯士と改名した。再び制科に登ったが位が達せぬまま卒した。
- 当初汝士が及第した際は当時評判となり清貫を歴任した。その年の子らは皆正卿に至り一族は隆盛を極めた。住居の静恭里には知温兄弟が並んで門戟を掲げた。咸通中、昆仲の子孫で朝廷や方鎮にある者は十余人に及んだ。