文宗の二子
莊恪太子永――立太子
- 荘恪太子永は文宗の長子。母は王徳妃。太和四年正月、魯王に封じられた。六年、上は王が幼いことから賢傅を得て輔導させたいと望んだ。当時の王傅の和元亮は待制に召し問うたところ、卒吏(下級官吏)出身で書を知らず全く答えられなかった。後日、宰相が延英で奏事した際、上は「魯王は素質があり教えられる、賢い士大夫を選んで官属とすべきで和元亮のような輩を再び用いてはならない」と従容として述べた。戸部侍郎の庾敬休を本官のまま魯王傅に、太常卿の鄭粛を本官のまま王府長史に、戸部郎中の李践方を本官のまま王府司馬に任じた。その年十月、詔を降し皇太子に冊立した。
- 上は即位以来、敬宗の遊興荒怠の後を承け恭儉惕慎で天下を安んじてきた。晉王が謹厳篤実であることから儲貳に建てようとしていたが、まもなく晉王が薨じ上は深く哀悼し長く東宮のことを口にしなかった。今回この命があり中外は喜び祝った。後に王起・陳夷行が侍読となった。
荘恪太子の廃黜危機
- 開成三年、上は皇太子が遊宴に耽り度を失し教導できないとして廃黜を議した。特に延英を開き宰臣と両省・御史台の五品以上、南班の四品以上の官を召し対した。宰臣らをはじめ多くの官は儲後(皇太子)がまだ幼く過ちを改めるのを待つべきで国本は至重ゆえ寛宥を願うと述べた。御史中丞の狄兼謨は上前で涙して諫め言葉は懇切であった。翌日、翰林学士六人と神策六軍の軍使十六人が表を進めて論じたため、上の意はやや解けた。
- その日一更、太子は少陽院に帰り、宦官の張克己・柏常心が少陽院使を充てられた。如京使の王少華、判官の袁載和および品官・白身・内園小児・宮人ら数十人は連座し死罪や剥色・流竄に処された。まもなく詔により侍読の竇宗直・周敬慎が以前のように隔日に少陽院に入ることとされた。
荘恪太子の薨去と哀冊文
- その年薨じ、勅により兵部尚書の王起が哀冊文を撰した。
- 開成三年、歳次戊午、十月乙酉朔十六日庚子、皇太子は少陽院で薨じた。十七日辛丑、大吉殿に座を移した。十一月乙卯朔二十四日戊寅、冊使の太子太師兼右僕射・門下侍郎・国子祭酒・平章事の鄭覃、副使の中書侍郎・平章事の楊嗣復に命じ節を持たせ荘恪の諡を冊した。十二月乙酉朔十二日丙申、驪山の北原の荘恪陵に葬った、礼にかなったものであった。玉琯の歳(年)は尽き金壷の漏刻も終わり祖奠の告徹が済み哀笳が引かれようとする、庭の燎火は消え月は寒く、路には旌が揺れ風が強く吹く、皇帝は主鬯(宗廟の祭主)の欠位を思い佩觿(幼くして帯びる玉)の夭年を悼む、銅楼は既に閉ざされ銀牒は徒に懸かる、対面した日を追想する間もなく冥漠として崩じてしまった、典冊が具わり文物が備わり侍臣に詔して上嗣(皇太子)を顕揚させたと記された。
- その詞に、帝統は緜古に肇まり徳を種え道を尊び文武を宗祖とすると述べ、上聖の開成の世に天下は和平で儲祉(皇太子の福)が祥を発しこの元良(太子)が生まれたと述べた。訏(大いなる)の初め岐嶷(幼くして賢い様)が彰れ才を蘊え藝に遊び玉のように裕か金のように相を備えていたこと、孩提を免れると封殖を加えられ東魯(魯王)として維城となり上国から介珪(玉)を賜ったこと、硃邸の栄を辞し青宮に位を正し師傅を尊重し徳を養い聡明を含み、馳道を畏れて絶えず寝門に問うて益々恭しかったこと、賢を招き警戒を怠らず斉に胄子として謙沖であり日々三善に躋り天慈を九重に奉ることを冀ったことが述べられた。漢の明帝が学を好み外に顕れ、魏の曹丕が文を能くし内を巡った故事を引き、顔回の過ちを二度せぬ美徳や孔鯉の礼を守る退き方に劣らぬ資質を称え、まさに山を築くように善を積んでいたのになぜ真に反り岱(泰山=死)に遊んでしまったのかと嘆いた。「嗚呼哀しいかな」と結ばれた。
- 憂い懼れが寿を損い沈痾(重病)が始まったこと、群望が並び走り百霊が祐けるはずであったのに、呉客(名医の秦越人)の問いも越人の方策も救えなかったこと、前星(皇太子を象る星)が光を掩うのを占い東朝(東宮)に咎が降ることを知ったこと、天が象を垂れるのは道理であり人はどうしようもなかったことが述べられた。「稅駕(旅の終わり)して華やかな車に乗り夜台(墓)の宮に赴き、鳳笙は永久に絶え蜃輅(葬車)は徐かに来る、青宮を出て右に向かい玄灞を経て左に回り、雕林を渡れば魂は断え曠野に入れば心は摧ける、水は挽くのを助けるように幽咽し雲は翣(葬儀の飾り)を帯びて徘徊する、佳城(墓)が既に閉ざされたことを悲しみ、新廟が開かれたのを見る」と続けられた。「嗚呼哀しいかな」と再び結ばれた。「経を授けられたのはいつの日だったか、紼(葬送の綱)を執れば歔欷が増す、九原(墓所)に赴いても嘆いても及ばず、七日で還る(蘇る)ことを願っても叶わない、少海(皇太子の位を表す)の波は既に去り西園の車蓋が飛ぶこともなく、商山の四皓のような賓客は既に散り望苑の賓客も皆帰った、瑟然たる玉簡は泉扉に閉ざされ、文字によりその信を伝え、音徽が失われぬことを願う」と結ばれた。「嗚呼哀しいかな」。
荘恪太子薨去の背景
- 当初、上は太子がやや長じても法度に従わず小人に親しんでいることから廃黜を加えようとしたが、公卿の請いに迫られ思いとどまった。太子は結局改めることなく、この時に急死した。当時の噂では、太子は王徳妃の子で晩年寵が衰え、楊賢妃の恩渥が深まる中で太子が後日自分に不利になることを恐れ日々讒言を加え、太子はついに自ら弁明できなかったという。太子が薨じると上は追悔の念にかられた。四年、会寧殿の宴で子供が竿を登る芸を見せた際、下にいた一人の男がその子が落ちることを憂え狂ったようになった。上が問うとそれは父親であった。上はこれに感泣し左右に「朕は天下を富有していながら一人の子すら守れなかった」と述べ、楽官の劉楚材、宮人の張十十らを召し「私の太子を陥れたのはお前たちの仕業だ、今また太子が立ったが再びこれを繰り返すつもりか」と責め、その場で殺すよう命じた。
蔣王宗儉