穆宗の五子
- 穆宗の五子は、敬宗皇帝・文宗皇帝・武宗皇帝・懐懿太子湊・安王溶である。
懷懿太子湊――漳王事件
- 懐懿太子湊は穆宗の第六子。若くして寛和温雅で斉荘の度があった。長慶初、漳王に封じられた。文宗は王守澄が権を恃むことに深く怒り宦官を尽く誅しようとし、密かに宰相の宋申錫に外臣とその計画を謀らせた。守澄の門人の鄭注はこの事を察知し先に申錫を誅そうとした。漳王が賢明で人望があったことから、神策虞候の豆盧著に変事を告発させ、十六宅宮市典の宴敬則・硃訓が申錫の親吏の王師文と共謀し不軌を図り、硃訓が王師文に聖上が病がちで太子がまだ幼く兄弟の中から立てるなら漳王が次であり先に結托すべきと語ったとし、師文から銀五鋌・絹八百匹を受け取り、晏敬則が十六宅から漳王の呉綾の汗衫一領・熟線綾一匹を持ち出し申錫への贈答としたと訴えさせた。この事はすべて鄭注が虚構でこしらえたもので、硃訓らを黄門獄で捕らえ拷問により偽りの自白を得た。三四日経って朝臣はようやくこの誣構に気づいた。諫官の崔玄亮らは閣中で極めて激しく諫め額が血に染まるまで頭を叩き、申錫の獄を外に出して勘鞫させるよう請うた。鄭注らは偽りの跡が露見することを恐れ貶黜を行うよう請うた。
- 制で「王者の教えは愛を先とし義は親を遺さない、まして同気(兄弟)の間で異論を挟むことができようか、もし慎修が至らず過失があったならば、厲階を作り邦紀を犯したとして誅殺流竄すべきところ、なお法の適用を控える、漳王湊は手足(兄弟)の親であり盤石の固めであり崇高な寵秩を受け戚籓に列している、これまで従順な心があり賢を尊ぶ志もあった、しかし満盈が禍を生み敗覆を図り奸兇と結び謀議に連なった、我が皇化を汚し外朝に露見し初め予の心を驚かせ再び群聴を驚かせたが、まだ獄詞が完備しない以上なお慎重を要する、封を建てる命はしばらく寛大に処す、巣県公に降封すべし」とされた。制が下ると上は中使に巣県の官告を持たせ十宅で湊に賜い、「国法にはこの処置が必要だが、お前は寛大な処置と思ってほしい」と伝えさせた。八年に薨じ、斉王を追贈された。
湊への追贈
- 鄭注が誅されると、帝は湊が陥れられたことを心痛し、開成三年正月、制を下した。善を褒め終わりを飾るのは王者の常典であるとし、兄弟の親愛を思う哀悼の情から元良(皇太子)の命を授けるとし、故斉王湊は孩提の頃から孝敬を知り親愛の情に篤く、磐石の固めとして茅社を分けられたこと、蟻術(学問)の精を探り象舟(智恵)の妙を持ち、書を好み善を楽しみ造次にも清規を失わず、師を尊び醴を置いて敬意を欠かさなかったことなどを述べ、周宣王が兄弟を愛した故事を思い長く追悼の情に堪えず、魏文帝の栄楽の言葉を見て憂いは尽きないとし、前典を稽え追栄の礼を特に高くし恩を泉壌(墓所)に表すとした。禮命の儀はそうであっても天倫の恨みはどう晴らせようか、幽魂に思いを馳せこの寵を受けるべきとし、懐懿太子を追贈し有司に日を選び冊命させるとした。
安王溶
- 安王溶は穆宗の第八子。母は楊賢妃。長慶元年に封じられた。太和八年、開府儀同三司・検校吏部尚書を授けられた。開成初、勅により安王・潁王は百官の例に準じ月ごとに料銭を給された。武宗即位後、李徳裕が政を秉ると、文宗崩御の際に楊嗣復が賢妃の宗家と結び安王を嗣に立てようとしたと告げる者があり、王は禍を受け嗣復は貶官された。