舊唐書卷一百七十三 列傳第一百二十三 李固言

出自と経歴

  • 李固言、趙郡の人。祖父は並、父は現。固言は元和七年に進士甲科に登った。太和初、累官して賀部郎中知台雑に至った。四年、李宗閔が宰相となり給事中に用いた。五年、宋申錫が王守澄に誣陷された際、固言は同僚と共に閣に伏してこれを論じた。将作監の王堪が太廟の修奉を怠り罰俸された上太子賓客に改められる制が出た際、固言は制を封還し、東宮の調護の地に弛慢で罰を受けた者を置くべきでないと述べ、均王傅に改められた。六年、工部侍郎に遷り、七年四月、尚書左丞に転じ詔により左右僕射の上事儀注を定めた。八年、李徳裕が輔政すると華州刺史に出された。

宰相としての活動

  • その年十月、宗閔が再び入ると吏部侍郎を拝した。九年五月、御史大夫に遷り、六月、宗閔が罪を得ると固言が代わって門下侍郎・平章事となり、まもなく崇文館大学士を加えられた。当時李訓・鄭注が用事し自ら輔相の権を窃もうとしていた。宗閔が逐われた後、表向き公正を示すため固言を立てたが、実際には宗閔の朋党を憎んだためであった。九月、兵部尚書として興元節度使に出され、李訓が固言に代わって平章事となった。訓・注が誅されると、文宗は固言の正直な人柄を思い、開成元年四月、再び平章事に召し戸部事を判じさせた。

徽号議論と諸臣の議

  • 二年、君臣が徽号を上ろうとした際、上は紫宸で「中外が章を上げ徽号を加えるよう請う、朕は理道がなお鬱していると思い嶽牧の請いに愧じ入る、州郡には政の悪いところがあると聞くが」と述べると、固言は「人の言うところでは鄧州の王堪は衰老し隋州の鄭襄は政が振るいません」と答えた。帝は「堪は貞元時の御史でこの一人だけだ」と述べ、鄭覃は「臣は王堪が旧人であることから刺史に挙げました、鄭襄も近頃の官守で失政はありません、もし外郡が治まっていないと言うなら二人だけの話ではないでしょう」と述べた。帝は「済々たる多士があってこそ文王は安んじた、徳宗の時代は班行に閑員が多かった、才が乏しかったのだろうか」と問い、李石は「十室の邑にも必ず忠信の者がいます、大国に人がいないはずがありません、貞元中は仕進の路が塞がれ才ある者が他所に身を寄せたためであり、これは人材の登用が至らなかった過ちです」と答えた。固言は「人材を求める道は保任する人がいれば奨用し、称職か否かにより昇黜すればよい」と述べた。上は「宰相が人を薦めるのに親疎を計るべきでない、竇易直が宰相であった時、親情を用いたことはなかった、もし己に相才がなければ自ら退くべきだが、公正な推挙であれば親であっても何を憚ることがあろうか、人に全才は稀であり、ただその長所を用いればよいのだ」と述べた。

晩年

  • まもなく金紫に進階し戸部事を判じた。その年十月、門下侍郎平章事として成都尹・剣南西川節度使に出て楊嗣復に代わった。門下侍郎を辞退する表を上げ検校左僕射となった。会昌初、入朝して兵部・戸部の二尚書を歴任した。宣宗即位後、累授して検校司徒・東都留守・東畿汝都防禦使に至った。大中末、太常卿の孫簡に代えられ、太子太傅を拝し分司東都となり、卒した。

史論

  • 史臣曰く、陳(夷行)・鄭(覃)の諸公は章疏の議論において端正な士の風を備えていた。天子は賢能として遇し鼎職に任じた。延英での献納には康済の謀はほとんど聞かれず、殿廷での議論も衆望に応えるものとは言えなかった。加えて互いに排斥し合い愛憎が競い起こった。ただ李回だけは奉使して藩臣を諭し危邦を救い旧怨を除くことができた。まして昭献(文宗)は文章が世の範となり得るほどであり、徳行は人の師となり得るほどで、啓(夏の啓)・誦(周の成王誦)に劣らぬ上才を持ちながら桓・霊(後漢の桓帝・霊帝)のような失道を犯していない、それなのに自らの過ちを省みず面従を務めるのみでよいはずがない。輔弼のあるべき姿がこれでは、どうして後世に教訓を垂れられよう。もし韓非のような言葉が用いられていれば、子(臣下)たちはどうして逃れられただろうか。土運(唐の徳運)の衰えとはまさにこうした魍魎のごとき有様であろう、悲しむべきことである。

  • 賛に曰く、愛しながらも悪を知り、憎みながらも善を忘れない、それでこそ心を平らかに非を救い鼎鉉(宰相)の地位に居るに値する。声に吠えて悪を助け党を結んで朝を専らにするのは、身を謀り国を壊すもので、どうして燮調(政を調える)と呼べようか。