舊唐書卷一百七十一 列傳第一百二十一 李景儉

出自と経歴

  • 李景儉、字は寛中、漢中王瑀の孫。父の褚は太子中舎。景儉は貞元十五年に進士第に登った。性は俊朗で博聞強記、前史をよく読み成敗の由縁に詳しかった。自ら王霸の略を自負し士大夫に対しても屈しなかった。

王叔文一派との縁と貶謫

  • 貞元末、韋執誼・王叔文が東宮で用事した際、景儉はとりわけ重んじられ管仲・諸葛亮に比する才として遇された。叔文が専権した際、景儉は母の喪にあり連座を免れた。韋夏卿が東都留守となり従事に招き、竇群が御史中丞となり監察御史に引き入れた。群が罪により左遷されると景儉も連座し江陵戸曹に貶され、累進して忠州刺史に至った。

元稹・李紳との交わりと昇進

  • 元和末、入朝したが執政に憎まれ澧州刺史に出された。元稹・李紳と親しく、当時翰林にいた紳・稹は上前でしばしば景儉のことを述べた。延英での辞去の日、景儉が自ら不遇を陳べると、穆宗は憐れみ倉部員外郎を拝す詔を追って下し、一月余りで諫議大夫に急遷した。

史館事件と最期

  • 性が元来矜誕で寵擢を得た後は公卿大臣を凌蔑し、酒に酔うと特にひどかった。中丞の蕭俛、学士の段文昌が共に輔政していたが景儉はこれを軽んじ談笑の中で侮辱したため二人が訴え、穆宗はやむなく景儉を貶した。詔で「諫議大夫李景儉は宗枝より抜擢され儒術を修め台閣を経て郡符も分掌したが、行いは仁義に背き権幸に付き節を欠き奸党の陰謀に通じている、衆情は皆疑い群議も収まらない、経緯によれば厳科に処すべきだが寛典に従う、過ちを省み非に徇うことのないように」として建州刺史とされた。まもなく元稹が用事すると郡から召し戻され再び諫議大夫となった。
  • その年十二月、景儉は朝を退いた後、兵部郎中知制誥の馮宿、庫部郎中知制誥の楊嗣復、起居舎人の温造、司勲員外郎の李肇、刑部員外郎の王鎰らと共に史官の独孤朗を訪ね史館で飲酒した。景儉は酔って中書に赴き宰相を訪ね、王播・崔植・杜元穎の名を呼び面と向かってその欠点を挙げ言葉は無礼であった。宰相は言葉を控えてこれを止めたが、まもなく漳州刺史への貶降を奏し、この日史館で共に飲んだ者は皆貶逐された。
  • 景儉が漳州に至る前に元稹が宰相となり、楚州刺史に改められた。議者は景儉が酒に酔い宰臣を凌辱したのに詔が下ってすぐ大郡に遷ったことを問題視し、稹は世論を恐れ召し戻し少府少監とした。連座した者も皆召し戻された。景儉は結局物議に忤らい志を得ぬまま卒した。景儉は財を軽んじ議論を重んじ、名節を厳しく守らなかったが、死の日には名の知られた士人たちが皆惜しんだ。
  • 景儉の弟の景儒・景信・景仁はいずれも藝学があり当時に名を知られた。景信・景仁はいずれも進士第に登った。

史論

  • 史臣曰く、孔子は「中行の者を得られなければ狂狷の者と共にせざるを得ない」と言った。李渤が考課を論じ張仲方が諡を駁議したのは、後悔を知りながら言を止めなかったという点で狷者と言えようか。鄭注が邪をもって権を握っていた時、諸公が口を閉ざし沈黙する中、李中敏・李甘・高元裕はある者は言を放ち、ある者は筆を奮い、醜行を暴き須(ひげ)に触れることを憚らなかった。これを狂と呼ぶには惜しい点があり、剣を請うて佞を断つ者と論ずるに値する。李漢(南紀)は良史の才を持ち自立し得たにもかかわらず権幸に阿り生涯を頓挫させた。君子は独りを慎むべきであり軽んじてはならない。李景儉は自負が過ぎ放縦で慎みがなかった、良馬が中年で羈を外れたような憾みがある。

  • 賛に曰く、張(仲方)・李(渤)の切言は利刃が雲を断つがごとし。裴(潾)が方士を諫めたのは深誠をもって君を愛したものである。言をもって賊注を排したのは高(元裕)・李(甘)の抜きん出た姿である。李漢・李景儉の朋比のごときは、あえて論ずるに足りない。