舊唐書卷一百七十一 列傳第一百二十一 李中敏

出自と経歴

  • 李中敏、隴西の人。父は嬰。中敏は元和末に進士第に登り、性は剛褊で敢言、進士の杜牧・李甘と親しく文章の趣向も似ていた。累く府の招きに応じ入朝して監察となり侍御史を歴任した。太和中、司門員外郎となった。

鄭注誅殺と宋申錫雪冤を訴える

  • 六年夏、旱害が起こり、当時王守澄が鄭注を寵し宋申錫を誣構した後だったため人々はこれを畏れていた。上は久しい旱害により雨を招く方策を求める詔を出したが、中敏は「連年の大旱は聖徳が至らぬからではなく、ひとえに宋申錫の冤罪と鄭注の奸弊による、雨を招く方策は鄭注を斬り申錫の冤を雪ぐことに勝るものはない」と上言した。士大夫は皆これを危ぶみ、疏は留め置かれた。翌年、中敏は病と称し洛陽に帰った。李訓・鄭注が誅され申錫の冤が雪がれると、中敏は司勲員外郎に召され、まもなく刑部郎中・知台雑に遷った。

理匭使としての建策

  • その年、諫議大夫を拝し理匭使を充てた。旧例では投匭の状は先に副本を匭使に呈し詭異なものは進めないとされていたが、これは貞元の一時の宣によるものと疑い、匭函は毎日内から出して日暮に進めるものであり冤濫を訴える者に必ず届く道を開くべきとし、有司に先に取捨させるのは道を塞ぐことになると論じ、今後の進状・封事は自ら引進するのみとし取捨は宸旨によるべきと請い、従われた。まもなく給事中を拝した。