李孝本
- 李孝本は宗室の子である。累進して刑部郎中に至り、訓・注に依って昇進を求めた。舒元輿が宰相となると訓は孝本を台雑に用い権知中丞事とし、最も訓の謀に与った。事を起こした日、孝本は従者を率い殿廷で宦官十余人を殺したが、事が成らぬと悟ると単騎で鄭注のもとへ逃げようとし、咸陽西原で追騎に捕らえられ一族誅殺された。訓・注に連座して一族滅ぼされた家は合わせて十一家に及び、人々はこれを冤罪とした。
史論
- 史臣曰く、王者の政は徳をもってし、覇者の政は権をもってする。古の先王はこの道により人を安んじ乱を鎮め統を垂れた。梓人が同じ柯を持ちながら技に優劣があり、碁打ちが同じ盤で一方だけ勝つように、事は術を得るかどうかにある。昭献皇帝(文宗)は端冕深帷にありながら宦官の専横を憤り宮居の弊を鏟り刑政の源を澄ませようと望んだのであれば、正人を礼し先朝の耆徳を訪ね文教を修め風俗を厚くし武備を設けて要荒を服させるべきであり、そうすれば自然に徳を懐いて安んじたであろう。区々たる宦官がどうして化を悖ることができようか。斉の桓公は豎刁・易牙がいても覇を成し、漢帝は韓嫣・籍孺がいても明を損なわなかったのは、管仲・周亜夫のような賢者に大政を委ねたからである。この二君は閹宦を制御する道を得ていた。ところが昭献は君主としての大体を忽せにし、纖狡な庸儒に惑わされた。終日経書を説き文を連ねても好文の誉を得るだけで治世をもたらすものではなかった。李訓は狙詐百端、陰険万状、王守澄に背いて鴆殺を勧め鄭注を出して権を専らにさせた。四星を隕し八校の権を兼ねても、小人の心中はなお測り難いものであり、蚤虱を除こうとして溪蓀を採り、かえって螾蜓の患を得るようなものであった。ああ、明主たる者、なぜこれを思わず、遂に血が黄門に濺ぎ兵が青瑣に交わる事態を招いたのか。藩鎮の後ろ盾がなければ黄屋(帝位)も危うかったであろう。王涯・賈餗にはなお士風があったが晩節を利に喪い、身を鬼蜮の輩に投じたため災いを免れなかった。天が不仁なのではなく、子(臣下)が道を失ったのである。
賛
- 賛に曰く、召公奭・周公旦は周を興し、李斯・趙高は秦を滅ぼした。禍福は天によらず、治乱は人による。李訓・鄭注は奸偽にして、血は象魏(宮門)を頽す。時に賢がなく、君は迷い本末を倒置した。