舊唐書卷一百六十九 列傳第一百十九 羅立言

羅立言

  • 羅立言は父の名を歓という。貞元末、進士第に登った。宝暦初、検校主客員外郎として鹽鐵河陰院官となり、二年、糴米の不正で贓一万九千貫と計上されたが、鹽鐵使がその吏才を惜しみ兼ねていた侍御史の職を削るのみとした。太和中、司農少卿として太倉の出納物を主り、財貨を厚く鄭注に賂り李訓にも重んじられた。訓が事を起こすに際し兵を集める必要があり、京兆府に吏卒が多いことから立言を京兆少尹・知府事とした。訓の敗の日、一族誅殺された。
  • 長安県令の孟琯は硤州長史に、万年県令の姚中立は朗州長史に貶された。両県の捕賊官が立言の指使を受けていたためである。当初立言が両県の吏卒を集めた際、万年の捕賊官の鄭洪は禍を恐れて病と偽り、その後偽死し家人に喪服を着せ哭泣させた。姚中立はその偽りを内心知りつつ、詐りが露見すれば自らも累が及ぶことを恐れ、鄭洪の詐死を状で告発した。仇士良は鄭洪を軍に拘えたが、洪は中立の告発を恨み士良に「召集された者は皆県令の指図によるもの、私に何の罪があろうか」と述べたため、中立は貶され洪は死を免れた。