出自と経歴
- 賈餗、字は子美、河南の人。祖父は渭。大父は寧。餗は進士に及第しさらに制策甲科に登り、文史ともに優れ四たび遷って考功員外郎に至った。長慶初、賢良の策召に際し当代の名士が策を考す中、餗は白居易と共に考策官となり文人を選び公正と評された。まもなく本官のまま知制誥となり庫部郎中に遷り職を兼ねたが、四年、張又新に讒言され常州刺史に出された。太和初、入朝して太常少卿となり、二年、本官のまま知制誥、三年七月、中書舎人を拝し、四年九月、権知礼部貢挙となった。五年、放榜後に礼部侍郎を正式に拝し、三年にわたり礼闈を掌り選んだ士は七十五人、その中には公卿に至った者も多かった。七年五月、兵部侍郎に転じ、八年十一月、京兆尹・兼御史大夫に遷り、九年四月、検校礼部尚書・潤州刺史・浙西観察使となる制が出たが赴任前に中書侍郎・同平章事を拝し金紫の階を進め姑臧男に封じられ食邑三百戸を得た。まもなく集賢殿学士・監修国史を加えられた。
最期
- その年十一月、李訓の事が発覚し殿廷で兵が交わり禁軍が掠奪を行った。餗は服を変え歩いて内より出て人中に身を潜めたが、翌日自ら神策軍に出頭し、王涯らと共に一族誅殺された。餗は中立を保とうとしていたが自ら身を挺して難を排せず奸邪の間で曖昧にしていたため一族滅亡に至った。時勢が悪く死は罪によるものではなく、世の人々は多くこれを冤罪とした。